瞬一。 遠くから、可愛い声が呼んでいる。 ___ああ。前にも、こんなことがあったような気がする。デジャブー、って やつだな。 このまま、ずっと惰眠を貪っていられたら、どんなに気持ちが良いだろう? 瞬一。 もう一度、名前を呼ばれて、仕方なしに目を開ける。青白い仄かな光が漂う、 摩訶不思議な空間。神聖だと思った。 ダケド。 ドコダ、ココ? パチパチと、寝惚け眼を瞬かせる。 「瞬一」 今度ははっきりと、タカシの声が聞こえた。そして。 アアッ! 自分の失態に気付き、慌てて、跳ね起きてみると、天使は翼を隠した“人の姿 ”でベッド脇に立ち、幾分、心配そうに覗いていた。 「大丈夫ですか? 随分、疲れていたようですけれど。何なら、もう少し休み ますか?」 のんびりとした口調は大層、可愛らしい。しかし、瞬一が置かれた状況はもう 少し、いや、かなり緊迫しているのではないだろうか? マズイ。相当、マズイヨ。 くたくただった。それは事実だ。久しぶりのスカッシュで走り回り、身体中の 筋肉が悲鳴を上げていた。いや、若いのだ。もしかしたら、肉体的には大した 疲労ではなかったのかも知れない。 ___いつもの体育だって、きつい種目の時はあるもんな。 それでも、人並みにこなしている。決して、虚弱体質というわけではない。 ダッタラ。 あれほど疲労困憊となった原因は他にある。つまり、思わぬ“堕天使”の登場 に緊張を強いられた結果、心労故ということになるのではないか。 ___すっごく緊張していた。気を張っていたもんな。 そう自覚もしている。大体、当初は全く、天使達の関係や、思惑が呑み込めて いなかった。 ソンナンジャ、余計ナ気ィ、遣ウヤンナ? 情状酌量の余地はあるはずだ。そう信じてはみるものの、もし、性懲りもなく タカシのベッドに、それもまともに上がって眠ったと、コウやレン、その上、 新たに加わった佐原にまで知られたなら、どういった災難が降り掛かって来る ことやら。想像してみるまでもなかった。せめて。ほんの軽いうたた寝程度、 短時間であって貰わなければ、言い訳も立たないことだろう。 「あの、タカシ」 「何です?」 「確認したいんやけど、な。また何日も日付が飛んでる、なんてことはない、 よね?」 「大丈夫ですよ。今は同じ日の、午後十一時になるあたりです」 「ああ。結構、長く寝てたんや」 「よほど疲れていたのでしょう。もう少し、ゆっくり寝かせてあげたかったの だけれど」 「そう言えば、タカシに起こされたんだよな。でも、何で? あ、もしかして お腹、空いた? もう十一時だもんな」 瞬一が目覚めるのを待ち切れなくなり、それで起こしたのかと推察してみたの だが、当人はニッコリと微笑み、その上で首を振った。 「いいえ。コウが呼んでいるからですよ。瞬一に御用があるって、下で待って います」 もし、マンガだったなら。 ___ここは絶対、ひーーっ、って叫ぶところだよな。ムンク調でさ。 こんな時にそんなことを考える自分が少しばかり哀しくもある。 ___こう見えても、大阪育ちだから、かな。 イヤ。 これはやはり、無意識の内の現実逃避なのだろうか。 現実逃避、カナ。ヤッパリ。 逃げられるものなら。今すぐ、是が非でも逃げ出したい。しかし、地球の裏側 くらいなら、歩いてでも行くと佐原は言っていた。あれは絶対に冗談ではない と確信している。 ___今だけは宇宙飛行士にでも、志願したい気分だよ。高い所も、狭い所も 大嫌いだけどさ。 泣き言を言おうにも、聞いてくれる相手はいない。唯一の味方、タカシは数枚 の紙切れを両手で持ち、ニコニコと、いつにも増して機嫌良さげで、今、瞬一 の身に迫る危機など、感じ取ってもいない御様子なのだ。そして、どうやら、 その紙を大事に持っていたがために、いつものように揺すって、瞬一を起こす ことは出来なかったらしい。 ___手が塞がっていた、と。 若干の不満を込めて、聞いてみる。 「タカシ、それ、何?」 「花嫁さんのお父さんが書いた下書きですよ。向こうでお世話になった、現地 スタッフ? その方々にお礼の手紙を書きたいとかで」 「花嫁って、ああ。子豚さんか」 「ええ。コウが預かって来たんです。申し訳ないけれど、瞬一、机と筆記用具 を借りてもいいですか?」 「え、ああ。いいよ。もちろん。でも、それ、どうするの?」 「英語に書き換えるんですよ」 「英語? タカシって、あ、そうか。日本語は下手だって言ってたよね」 「ええ。ただし、古臭い英語ならしいので、あとでコウ達に推敲して貰わない とね」 くすりと小さく笑ってタカシは背を向け、だが、すぐに振り向いた。 「急いだ方がいいのでは?」 「あ、うん」 気は乗らない。しかし、先延ばしにすればしただけ、コウの機嫌は悪くなり、 当然、話もややこしくなる。 ソウダ。 せめて、レンが帰る前に片付けておいた方がいい。 ___2対1よりはましだよな。何せ、レン君は口が回る。マシンガントーク 炸裂だからな。 そう自分に言い聞かせ、パタパタと駆け下りて行く。目当てのコウはキッチン にいた。買い出しをして来たのだろう。朝、空っぽだった冷蔵庫に卵のパック を一つ、入れると庫内は満杯となった。パックごと入れては、またレンが怒る のではないか。そう思ったが、敢えて、触れない。二人がギャーギャーと言い 合うのは趣味のようなものだ。 「あの、コウ君。お帰り」 「ただいま」 パタン、と冷蔵庫の扉を閉め、コウは振り返る。 「何でだろうな?」 予期しない低く、暗い口調に背筋を凍らせる。いつもとはあまりに違う雰囲気 にきっと新手の嫌がらせだ、そう思いつつ、一応、しらばっくれてもみた。 「な、何が?」 「ハワイ挙式だって、ハワイに行ったんだぜ?」 「はっ?」 何の話だろう? 予想もしない展開に目が泳ぎ出しそうになる。 「一族総出で、ハワイに行ったのに、何で土産がキムチなんだ?」 コウが細い顎先で示したダイニングテーブルの上にはハングル文字が記された 大ぶりなビニール袋が鎮座している。 「ま、いいけどさ。仕方ないから、今夜はキムチ鍋にするぞ。おまえ、土鍋を 出しといて」 「うん。あっ、そうだ」 「何?」 「御飯がない。出前でも取って食えって、レン君が言ってた」 「ああ、オレが手配した。あとから来る」 |
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