『天使は大した病気にはならない。少なくとも天界にいる限りは、な。タカシ
の右の膝だって、病気やケガでああなったわけじゃない。だからこそ、あんな
ベッドで幾晩、眠ったところで、治癒もしない。裏返して言うなら、タカシの
背中が痛むはず、ないんだよ』
学校帰り、偶然、見掛けたから送ってやると声を掛けてくれた堕天使にはその
時、本当は思う所があったのかも知れない。
『タカシはオレには痛いだの、痒いだの言わないし、コウやレンにも言わない
だろう。おまえは人間だから、おまえにだけは正直に、何でも打ち明けられる
のかも知れないな』
一秒、二秒、考える。
『じゃ、オレ、犬とか、猫とかそんなもんなんか? 家族には言えへん会社の
悩みとか、ブツブツ愚痴る相手なん? 返事はいらん、ただ聞いてくれれば、
それでええ、みたいな。めいいっぱい良く言うて、セラピー犬、みたいな? 
何やねん? オレは犬、猫とちゃうで!』
___オレだって。
タカシニ、頼リニシテ欲シイネン。
『おい、勝手に深読みして、怒って、その上、いじけるなよ。本当、おまえ、
オレが相手だとケンカ腰だよな。ガウガウ噛み付いて来るよな。ったく。一度
くらい、コウでも、レンでもいいから、あいつら相手に言ってみろ!って言う
んだよ。絶対、その場で噛み殺されるから。ま、いい。あのな、オレはおまえ
がいてくれて良かったって、そう言っているんだよ。わかる? 感謝している
んだよ。だから、寝る前には必ず、“瞬君、今日も一日、ありがとう。明日も
頑張って!”って呟いて、それから“瞬君にますます良いことがありますよう
に”重ねて祈ってから、休むようにしているくらいなんだぜ? タヌキ寝入り
の前に、だけど』
『あ、そう』
『あららっ? 赤くなってんの? さすが若人! 反応が早いね。瞬時に色が
変わるね。よっ、リンゴホッペ、もぎたてちゃんv』
『うっさいわ』
からかわれ、そっぽを向いた後頭部に佐原は言った。
『普通に考えるとこっち、人間界に来てから痛むようになったってことだろう
けど。それも解せないな。あんまり外には出ていないわけだし。そうなると、
人間界の何かが身体に合わなくて、それで背中が痛むってことなのかな』
『以前にもあったようなこと、言うとったような気がするけど。痛いって言う
より、こわばるとか、そんな程度やったみたいやで』
『つまり、段々、悪くなっているってことか?』
『そうなんかも』
『じゃ、オレが要因なのかな?』
『オレが、って? 何で?』
『堕天使のオレが傍にいることで、タカシの身体に悪影響を与えているんじゃ
ねーのかな、ってこと』
『そんなんやないと思うけど』
『変な気、回さなくていいんだぜ? 事実は事実として冷徹に見て、ちゃんと
向き合わなきゃ、何も生み出せないんだからな』
『慰めとちゃうよ。佐原君と会った日だから具合が悪くなった、なんて、記憶
にないから』
『それならいいが』
『でも。病気じゃないんなら、何なんやろうね?』
『わからんな』
『肩凝りの一種ってことはないんかな? だって、タカシの翼って、すっごい
大きいやん? 冷蔵庫くらい、あるやんか?』
『おいおい。確かにかさばるけどな。別に重いもんじゃねーから。とは言え、
タカシは“もう一組”持っているからな。オレ達の経験とか、天界の常識とか
って、果樹園の天使相手にはあんまり、通じねーからな』
何でだろう? 
やっぱり、肩凝りの類なのかな? 

 独り言のように呟く佐原の声が未だ、耳に残っている。その低い悩める声と
タカシの吐く苦しい息が被さって、瞬一の心臓も緊張のためなのか、息苦しく
なって来た。とても一人では抱えきれないことだ。そう認識し、タカシの身体
をベッドに横たえた。
「待ってて。佐原君、呼んで来る。あ、部屋に入れないのか。じゃ、タカシを
連れて行けば」
「待って、大丈夫です。擦って貰って、随分、楽になりましたから。もう平気
です」
「何を言うんだよ。“いつもの”とは全然、違うだろ?」
いつもの。時折、タカシが訴えて来る痛みとやらは祖母や母親が買い物帰り、
遠出した後などに指圧を頼んで来る、あの状態に似ていると言えなくもない。
だが、今回はこんなにまで苦しげなのだ。到底、単なる疲労とは言えないはず
だ。
「肩凝りの類で息苦しいなんてこと、有り得ないだろ? 顔も何か赤くなって
いるし。ほら、涙目じゃん? 一大事じゃん?」
「そうではなくて」
ギュッと右手を掴まれる。その手も酷く熱かった。慌てて、タカシの頬に手を
伸ばしてみる。
「こんなに? こんな熱もあるじゃないかっ!」
「だから、瞬一。怒らないで、話を聞いて」
「話って、だって」
「お酒を飲んで、酔っているだけなんです」
ようやくそれだけ言って、タカシは息を吐いた。
「だから、病気ではないんですよ」
「お酒って? へっ、いつ? お酒なんかタカシ、飲んでいないじゃん? 家
にはそんな買い置き、していないし」
兄がいる時なら、ビールくらいは冷蔵していたかも知れないが。
「さっき。瞬一が飲んでいたのはアップルサイダーで」
「ああ、リンゴ味のサイダーだったな」
「で、僕達が飲んでいたのがシードル」
「シードル? それ、お酒なん?」
「ええ。今日はお誕生祝いで、お別れの会だから、特別にって、佐原が」
エッ?
「ちょ、ちょっと待って。お誕生祝いで、何だって?」
「お別れの」
「お別れって、何? え、タカシ、天界に帰るんか? 嘘やろ!」
「違いますよ。佐原が旅の続きに出るって」
「旅?」
「北海道で、ほら、雪の中で目が覚めた時に絶対、暖かい所まで行ってやる、
そう決めたんだって言っていたでしょう?」
「ああ、言っていた。沖縄まで行くとか、何とか」
「それです」
「それですって、そんな簡単に。え、それ、いつの話なん?」
「明日はまだいると」
 話の途中にも関わらず、ふいにタカシは口を噤み、瞬一もそのタカシの視線
を後追いし、それを見る。ごく単純なメロディーと光の点滅がメールの到着を
知らせている。階下の三人が知りたがっていること。その答えがあるようだ。
「知りたいのですか?」
「えっ?」
「今は酔っていますからね。うっかり、少しだけ、口を滑らせても仕方、ない
ですよね」
小さく、くすりと笑ったタカシはどこか、哀しげだった。
「各地の、民間伝承を調べているんです。庶務の皆さんにも手伝って貰って。
古い時代の、その地に伝わる言い伝えのようなお話を」
「良くわかんないけど。でも、何のために?」
暇潰しではないはずだ。タカシは翻訳に携わるために猛勉強をしている最中だ
し、膝のために出来ないこと以外の家事は全て、こなしている。決して、暇人
などではない。
「昔、魔物さんは時々、人間界に降りていたんです。もちろん、本人が直接、
ここへ来るわけではなくて。人間が思うところの幽体離脱のような形で」
「幽体離脱?」
「ええ。当時、彼が見た世界を少しだけ、知りたいと思った。それだけのこと
ですよ」

 

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