不意の異変に不安を覚え、つと、タカシはと見ると、彼は手元のアイロンの
スイッチを切っていた。アイロン掛けは未だ、終わっていない。だとすると、
呼び鈴は鳴らなかったものの、しかし、確実に誰かが来たのだと察することは
容易だった。
デモ、誰ガ? 
普通の来客なら、レンが陽気に玄関先へと駆け出すだけで、作業途中のタカシ
が自分の手を止めることはない。彼は決して、応対には出ないのだから。
「そこにいろ。いいな」
コウはそう短く、レンに指示して、一人、廊下へと出て行った。
「何事なん?」
我知らず、声も小さくなる。
「天界から誰か、御使いが来たようですね」
瞬一の質問に答えてくれたのは他ならぬタカシだった。レンはと見ると、見る
間に強まって行く緊張に縛られて、正直、瞬一の相手などしてもいられないの
だろう。
「何で? 一体、どうしたんだろう? まさか。まさか、天界で何か、あった
んじゃ、ないよね?」
遠く離れた生まれ故郷を案じ、不安げなレンの様子を見れば、瞬一とて緊張を
覚える。ここまで来て、天界のことなど知らない、自分とは関係がないなどと
は割り切れない。どこかできっと、しっかりと繋がった遠い世界に何かあった
のかも知れない。そう思うと、瞬一までもが不安に駆られ始めていた。もう、
他人事ではないのだ。
「タカシ?」
「詳細はわからないことだけれど。でも。良い知らせではないのでしょうね、
残念ながら」
タカシの落ち着いた声にむしろ、一層の不安を覚える。聞き慣れない程、毅然
とした声音には年長の自分こそがしっかりしなければならないという、気負い
のようなものも混じっているように感じるからだ。そして、それは通常、あり
得ない緊張のように思えた。
ダッテ。
本来、“軟禁”に近い状態で囲い込まれ、警護されて過ごす果樹園の天使には
いざと言う時、その危機に対応出来るだけの戦闘能力や、精神的な耐性がある
とは思えない。そんな修行を積んでいるはずがないのだ。非常時、彼らの取る
べき対処法は唯、守ってくれる兵士の近くまで逃げること、それのみなのだ。
___そのための“時を止める”って、離れ技なんだもんな。タカシにはもう
使えない手なんだろうけど。
「ねっ、大丈夫かな? 少し長くない? どんな話なんだろう? 何を話して
いるんだろう? オレ、ちょっと様子を見に行った方が良くないかな?」
「もう少し待ちましょう」
「でも」
レンは言い縋ることはしなかった。
「うん。そうだね。越権は良くないよね、やっぱり。オレには最初に聞く権利
がないもんね。補佐役候補だもん、資格がないんだよね」
疑いようもない。きっと、“何か”が天界で起きたのだ。恐らく、すぐにでも
コウの元へ駆け付けたいのだろうレンの落ち着かない様子を窺いながら、じっ
と待つ。待つしかなかった。
 程なくして、小さな顔をこわばらせたコウが戻って来た。
「コウ」
自分達の立っている場所へコウが戻って来る、それだけの短い時間すら、待ち
切れないレンが駆け寄って行くのを見ながら、うっすらと考える。きっとコウ
は大切な話をするのだろう。そんな所に唯一、人間である自分が一緒にいても
良いものか、否か。
___出ろって言われたら、もちろん出るけど。でも、言われない限りは。
出来るなら、ここに留まりたい。
ダッテ、タカシニモ関ワル大事ナ話ニ違イナイカラ。
「コウ、何だって? 御使いは何を言いに来たの? 天界に何か、何かあった
んじゃないよね?」
「天界には異常ない」
すかさず、安堵の息を吐きかけて、だが、すぐにレンは表情をこわばらせた。
小ぶりな耳は聞き逃しはしなかったのだ。
「天界、には? それって?」
「タカシ」
「はい」
「オレは天界に戻らなきゃならない。いや、オレだけじゃない。地上に降りて
いる者全員、全ての天使が、だ」
「それは、、、」
絶句するタカシを尻目にレンが声を上擦らせる。
「何で? 何で? 何で、そんなこと、しなくちゃならないの? 全員って、
南ッ側の天使全員って意味? それとも、庶務の奴らもって意味? それとも
まさか、西ッ側の奴らまでって意味じゃ、ないよね?」
レンの興奮し、いささか甲高く、耳障りになって来た、まくし立てる声にも、
コウは眉一つ、動かさなかった。
「全員、だ」
「それって」
レンまでもが絶句する様子を見、瞬一もボンヤリと考える。ただならぬ事態だ
と想像は出来る。しかし、人間である瞬一には未だ、彼らが緊張する事態の、
全容は見えて来ない。
「コウ。それでは、魔界か、冥界か、どちらかに何か、あったと言うことです
か?」
「ああ。久方ぶりに魔界に、な」
「嘘だよ。だって、魔界の奴らはこの頃、“こっち”側には全く関心も示して
いなかったじゃん? それって、まさか、また大戦が始まっちゃうってこと?
 天界は奴らに攻め込まれちゃうの?」
「そんなこと、若いオレに聞かれてもわかんねぇよ。タカシだって、先の大戦
は知らねぇんだし。ずっとずっと遠い昔の、あの大天使様達がお子様だった頃
の話じゃ、な」
「お子様だった頃に聞いた昔話でしょうね」
小さくタカシが訂正し、すっと表情を改めた。
「ならば、コウ。今すぐ帰りなさい。急を要することでしょう?」
「わかっている。オレは帰る。だけど」
コウの迷う理由。タカシだ。そう直感し、瞬一は考える間もなく、傍にあった
タカシの手を掴んでいた。ギュッと握ると何かが、それでもちゃんと伝わった
のかも知れない。タカシは微笑んで見せてくれた。
「僕なら、大丈夫。迷うことはありません。コウ。行きなさい。天使として、
今すぐ行かなければ」
「わかっている。でも、タカシ一人を人間界に残すのは」
異世界に仲間を残すコウの不安や心配を、人間である自分に置き換えて、懸命
に考えてみる。
___もしかしたら。月面に一人、仲間を取り残して帰還するような、そんな
気持ちなのかな。
今、コウが感じているのはただならぬ不安のはずだ。タカシは同等の仲間では
ない。天界においても格別の、大切な果樹園の天使なのだ。こんな物騒な人間
界に置いて行きたくないと思うのは至極、当然だった。
デモ。
離れたくない。そう思うと、タカシの手を握る瞬一の手にも一層、力がこもる
「ねぇ、コウ。だったら、タカシも一緒に連れて帰ろう。瞬一には悪いけど、
でも、タカシが人間界に一人っきりだなんて、あってはならない事態だもん。
やむを得ないよ。ねっ。ほとぼりが冷めたら、その時はまた」
「そんな甘いこと、夢物語だって、おまえだってわかっているだろう?」
コウは珍しくも、レンを相手に声を荒げた。
「果樹園に戻れるなら、いい。だが、帰れば、即座に収監される可能性だって
あるんだ。その時は、“壷”程度じゃ済まないんだ。軽々しくものを言うな」
「でも。でも、コウ。オレ達、皆、帰って、誰もいないのに、人間界にタカシ
一人だけ、残しては行けないよ」
「わかっている。だから、いっそ、おまえを残して、行こうかと考えている」
「えっ?」
「おまえは一人では天界へ帰れない。必然的にオレが置いて行けば、おまえは
ここに取り残されることになる。それなら、おまえが後々、追及されることは
ない。お咎めを受けるのはオレ一人だ」
「コウ。そんな手立てが通用しないことだって、明白でしょう。おまえは聡い
のですから。迷うことはありません。二人で帰りなさい」
「でも、タカシ。タカシをこんな所に置いて行くわけには」
「いいえ。コウが迷うくらいなら。いっそ、僕が天界に帰ります。瞬一の合格
を見届けられないのは寂しいけれど、でも、コウを惑わすよりはよほどましだ
と思うから。瞬一」
名前を呼ばれ、タカシの白い、優しげな顔を見上げる。
「瞬一も、わかってくれますよね」
「わかりとうはないけど」
明るい琥珀色の瞳を見つめ返せず、俯いた。目の前で交わされた会話の中身。
人間である瞬一が想像し、理解する以上に深刻で、切羽詰った内容なのだろう
と察することは容易だし、この期に及んで行かないでくれとごねてはならない
と、わかるつもりでもいる。
デモ。
タカシト離レトウナイ。
「そんな肩、落とすなよ。オレ達、子供相手に酷いこと、しているみたいじゃ
ん?」
精一杯、明るく装って、レンが瞬一の肩を叩いた。
「ほら、めそめそすんなよな」
「自分かて、涙声やん?」
「こ、これはアレルギー。きっと花粉が飛んで来てんだよ」
「嘘吐きやな」
二人のやり取りと、タカシの様子を見、コウはそれでも、まだ考えているよう
だった。
「コウ」
「ん?」
「正直を言えば、未だ人間界に心残りはあります。でも。そんなことのために
コウ、レン、おまえ達二人の未来を台無しにはしたくないんです。佐原のこと
ももちろん、ありますけれど、でも、天使には天使として天界で生きる、それ
以上の幸せはないはずですから」
「わかった。タカシはここにいて。ここでオレ達の帰りを待っていて欲しい。
オレはちゃんと天界を守って、戻って来る」
「オレも帰るよ。何たって、オレの使命はコウの面倒、看ることだからね」
「おい、お荷物になってくれるなよ」
「何を言う? 絶対、オレの方が有能だもんね」
「ああ、そう。じゃ、そういうことにしといてやるよ」
「むぅ」
「瞬一」
「うん」
「タカシを頼んだぞ。今のところ、おかしな兆候があるだけで、本当に何かが
あると決まったわけじゃない。集まったけど、解散ってこともあり得るレベル
だ。ただ」
「ただ?」
「事態の見極めが付くまで待機しなきゃならないかも知れない。その時は連絡
を入れるから、しばらく留守を頼む」
「わかった」
「そんなマジ顔しなくても大丈夫だよ。お偉方は小心者揃いだもん。どうせ、
大したこと、ないはずだよ」
気を取り直したのか、すっかり明るい口調でレンが言う。
「ちゃんと良い子で待っていろよ」
「うん、待っとるわ」
「タカシも」
「ありがとう。二人共、無事で」
コウとレン、二人の小ぶりな身体をギュッと抱き、タカシは微笑んだ。
「大きくなりましたね、二人共」
「何、言ってんだか。いつまでもガキンチョじゃいないよ。ね、コウ」
「まぁ、な」
「あ、そうだ。タカシ。頼まれてくれる?」
「ええ、何でも」
レンはパタパタと駆け出したかと思うと、小さな手帳を持って戻って来た。
「これね、コウとオレの知り合いの連絡先が書いてあんの。悪いけど、オレ達
はしばらく留守をする、休むって、電話してくれるかな? いつでも万が一に
対応出来るように家庭教師も代役をしてくれる人、頼んであるから。この人。
まず、ここに連絡して、田舎に帰ったとか何とか言っておいて」
「わかりました」
「あ、携帯じゃなくて、ここんちの電話で掛けるんだよ。携帯の番号なんか、
気軽に教えちゃダメだからね」
「はい」
「瞬一も、オレ達がいないからって、調子に乗らないように」
「失礼やな。オレはいつも、きっちりしとるやん」
「そだね。要領悪い子だもんね、瞬タンは」
ニタリと笑って、それからレンはコウを見やった。
「よし。行くぞ」
パッと白い閃光を放ったかと思うと、眩しさから閉じた目を開けたその時には
二人の姿は消えていた。
「タカシ?」
「大丈夫。きっと、いつものように元気良く、すぐに帰って来ますよ」
「そ、だね」
「さて」
もう一度、カチン、と音を立てて、タカシはアイロンのスイッチを入れた。
「もう一頑張りして、終わらせましょうか」
「うん」
地上から、ほとんど全ての天使が消えた夜。

 

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