ずっと以前に。一度か、二度、留守を見計らい、こっそり立ち入った覚えの
ある兄の部屋。いかにも子供用に設えられた瞬一の、カラフルで、物に溢れ、
可愛らしい部屋とは異なり、兄の部屋はシンプルで、大人びていた。いつか、
自分も大人になったら、あんなホテルの一室のような冴えて、謎めいた部屋に
したい、そう夢見たことも覚えている。黒を基調としたシンプルな部屋の一角
には今日もあの遠い日同様、布の掛けられたイーゼルが一つ、置かれていた。
当時は幼かった分、より強く興味を惹かれたのだが、勝手に部屋に入っている
こと自体がやましく、その上、盗み見までする度胸はさすがになくて、じっと
見つめただけで部屋を出た。
___さすがに同じ絵じゃ、ないだろうけど。
あの日、どうしても見ることの出来なかった絵に未練を感じながら、考える。
あの日と全く変わらず、キープされた部屋。それはいささか不可思議な光景で
もある。瞬一は綺麗好きの天使達に促されて、度々、正確には『掃除している
のか』と詰問される度、両親の部屋を掃除している。週に一度程度の掃除だ。
だが、それでも、どこから湧いて出て来たのかとうんざりするほど、埃は出て
来る。四六時中、人の出入りがある階下の部屋に比べ、明らかに部屋の空気は
澱み、あちこちに白く埃が積もった。
___そんなもん、だよな、普通。
それにも関わらず、なぜ、長い間、主人が留守をしていた兄の部屋はこんなに
綺麗に整っているのか? きっともう五分、考え続けてみても、答えには行き
着かない。それなら、いっそ。思い切って、口を開いた。
「お兄ちゃん」
クローゼットを開け、物色中の兄に呼び掛ける。
「何だ?」
「この部屋、すっごく綺麗だよね。でも、何で?」
「ブゥーが掃除していたから」
「―」
ブゥーが掃除していたから。反芻し、思わず、間抜けな大声を上げてしまう。
「はぁっ? 掃除ぃ? 誰がぁ? いつぅ? えっ? ブゥー? 何、それ」
「さっき、言ったじゃん? 三軒隣の。そう言えば、あいつ、何て、名前だっ
たっけ? ああ、白石だ。白石、そいつが掃除に通って来ていたから、だよ」
「掃除にって、オレ、そんなん、知らへんよ。会ったこと、あらへんよ」
「そぉなんだ? でも、別に昨日、今日からの話じゃないぜ。オレが家を出た
後、つまり、おまえの祖母さんがピンピンしていた頃からだからな。祖母さん
は知っていたよ。ブゥーがお茶が出て来て、困ったって、言っていたもん」
「でも、でも、本当に一回も、ブゥー、じゃなくて。白石さんとは会ったこと
もあらへんよ?」
「おまえが出掛けている隙に来るから、だろ? あいつ、玄関で他人と御挨拶
なんて、苦手だもん。それが出来りゃ、普通にお勤めしているだろうが」
「でも、そうだ。ほら、鍵とかは?」
「オレが渡した。この家の鍵とこの部屋の鍵、それと車の鍵もな」
ジャ。
佐原が言っていた、誰か、他の人間の気配とは白石のものだったのだ。
___佐原君、呆けていたわけじゃなかったんだ。
「合点が行った?」
「う、うん。そうだよね。閉めっぱなしじゃ、部屋が傷むよね。絵もあるんだ
し」
「それは売り物じゃないけどな」
兄は黒い一着を手に取り、それと決めたらしく、振り向いた。
「出掛けるん?」
「ああ。法事だから、欠席出来ないだろ」
「法事」
誰のためのものなのか、ピンと来ず、首を傾げると、兄は笑ったようだ。
「おまえには関係ないよ。オレのおふくろの、だから」
オフクロ。
法事とは大抵、故人の命日にするものなのではないか? 
___そうだよな。じゃなきゃ、何もクリスマスにはしない、よな。ちょっと
ずらして休日にすればいい話なんだもんな。
瞬一が考え込む様子に気付いたらしく、兄がこちらを見やった。
「何?」
「あの、父さんは? 父さんも帰国しているの? 何も聞いていないんだけど
「知らない。呼ばないし。大体、あの人、おふくろの家には入れないだろ?」
「あ、そっか」
この家に祖母の位牌がないのと似た理屈なのかも知れない。潔癖で実直な伯父
にはどうしても、母親の生き方とやらが許せなかった。祖母が生きていた頃に
はそれでも多少の関わりがあった。母親より、ずっと年上の伯父は生真面目な
読書家で、彼の自宅、つまり、母親の実家はとても居心地の良い、幸せな場所
だった。たまに祖母に連れられ、訪ねても、大人達の話が続く間中、古い本を
眺め、静かに楽しんで待つことが出来た。今、そこに祭られた祖母はきっと、
心穏やかに過ごしているだろう。そう思う。
ココヨリハ、気ハ楽ヤロウカラナ。
「おまえがしんみりするようなことじゃないよ。おふくろは別におまえの母親
に夫を盗られたわけじゃないんだから」
「盗られたわけじゃないって、でも、不倫で、結果的には略奪したんやん?」
兄とその母親の幸せを、、、。
「違うって言ってんだろ?」
兄はすげない。
「平たく言うなら。親父にとって、おふくろは金の素であって、愛情を感じる
女じゃなかった。お互い、納得ずくの政略結婚だったんだ」
「でも、結婚したからには」
「そんなことより、タカシはどの部屋を使っているんだ?」
思い掛けない質問に瞬いた。なぜ、兄がそんなことを尋ねるのか、その心意が
読めなかったからだ。
マサカ。
追い出されるのではないか? そう思い付く。
___そりゃあ、久しぶりに帰宅して、知らないヒトが住んでいたら、気分は
良くないだろうけど。その上、タカシは天使だし。
「どこ?」
「お祖母ちゃんの和室を使ってる」
「ふぅーん。あそこは寒いだろう? 床冷えがするはずだよ。何せ、古いから
な、この家は。オレは出掛けるから、今夜はそのまま、ここで休ませてやれば
いい。この部屋は風呂とトイレ付きだからな。その方が便利だろう」
「ええの?」
「ああ。まだ動かさない方がいい。壁に打ち付けられて、しこたま頭を打った
らしいしな。どうでも自分の部屋で休みたいんなら、それでもいいが、部屋は
先に温めてやんな。あのエアコン、古いから時間がかかるんだろう」
「うん。ありがとう」
さっさと身支度を整え、部屋を出て行く兄はごく平静だった。
「タカシ、ちょっと待っててな」
力なく瞬一の手に寄り掛かったまま、目を閉じていたタカシに一言、断って、
瞬一はパタパタと駆け出して、兄の後を追った。
「お兄ちゃん」
半ば、下りかけていた階段で捕まえる。
「何だ?」
「あの、このまま、タカシと一緒に住んでいても、ええの?」
「いいんじゃないの? おまえ、結構な金額、振り込んで貰っているんだろう
? それで賄えるんなら、問題ないんじゃないのか?」
「そ、だけど」
「他に聞くことは?」
「あ、あの」
「何?」
「お兄ちゃんって、驚いたりとかはせんかったん?」
「驚く? 何に? 強盗か?」
「それも、あるけど。だって、タカシ、天使、やで? 家に天使がおったら、
普通、驚くんやないかな、と思って」
「別に」
「別にって」
絶句する瞬一を見やり、兄はやや意味ありげな笑みを浮かべて見せる。
「オレはね、たぶん、神経が三本くらい、死んでいるから、平気なんだと思う
ぜ」
意味がわからず、瞬く。瞬一のそんな戸惑いを見て、兄は笑ったようだ。
「人間ってさ、自分の母親の割れた顔なんか見ちまったら、人格に一大変化を
来たすもんらしいな。何を見たって、一々、驚いたり、喜んだりしなくなる、
それだけの話だよ」
母親の割れた顔。兄の母親、つまり、父親の前妻は故人だが、瞬一は死亡理由
までは知らない。
「お母さんって、、、」
「事故だった。何せ、本人に死ぬつもりはなかったはずだから。酔っ払って、
ふらふら車道に躍り出て、それっきり」
「それっきりって、そんな」
「おまえ、あれこれ首を突っ込んで、思い悩んでみたいお年頃なんだろうけど
な、無駄な気苦労までしなくていい。終わっちまったことだからな。くよくよ
したって、意味がないんだ。さて。オレはいい加減、出掛けなきゃ、そろそろ
ヤバいんだ。これ以上、呼び止めてくれるなよ。そうだ。ブゥーが掃除に来た
ら、適当に用事、頼んでいいから。まだ警察から連絡があるかも知れないし、
オレは留守をするし、子供一人じゃ、間に合わないこともあるだろうからな。
一応、留守番は頼んでおいたから」
「うん、ありがとう」
「戸締りはぬかるなよ」
「わかった。いってらっしゃい」
兄が出掛けたのを見届け、トボトボと部屋へ戻る。
「父さんも罪作りな人やな」
我知らず、そう呟いていた。
 当時の父親の年齢と母親の年齢を天秤に掛ければ。おのずと父親の罪が重く
深く沈んで行く。過去を悔やんでも、仕方ないのだとしても。過去は何一つ、
変えることが出来ないのだとしても。そこから学び取り、将来に活かせること
がきっと、あるはずだ。
___せめて、オレはちゃんと自制する。ちゃんとルールを守る。誰かを不幸
にするような幸せ、選んだりしないから。
ダカラ、ドウカ、オ兄チャンノオ母サンガ、ユックリ眠レマスヨウニ。
キュッと強く眼を閉じ、そう祈る。
今ハ。
___とにかく、タカシを安心させてあげなくちゃ。怖い思いした後なのに、
こんな不細工な、暗い顔、見せられへん。
ごしごしと瞼を拭い、息を吐く。タカシが無事だったのだ。これ以上の喜びは
他にはないはずだ。
「よしっ」
気合を入れ直し、兄の部屋へ戻る。ポツン、ポツンと小さな明かりが灯された
静かな部屋。そこにタカシは横たわったままだった。
「タカシ」

 

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