ノブに手を掛けたまま、瞬一はしばし、ためらった。もしも。ドアを開け、 そこに兄が立っていたなら。そう考えるだけで、とてつもなく気は重くなる。 デモ。 ___まさか、素通りってわけにもいかないんだよな。 考えるまでもない。兄がそこで髪を乾かしていたとしても、不思議ではない のだ。彼はこの家の鍵を持っている。呼び鈴を鳴らして、瞬一にドアを開けて もらう必要はないし、そんな立場でもない。 ___そうだよな。だって、ここはオレじゃなくて、むしろ、兄さんの家なん だもんな。 アメリカ在住の新進画家。聞こえは良いが、瞬一にとっては馴染みのない存在 だった。土台、十も歳が離れていて、その上、初めて会った時、彼は既に高校 生だった。弟が出来て嬉しいと思う歳頃ではないし、それに、もし、“自分 だったら”と彼の心境を想像してみると、彼がどれほど瞬一を鬱陶しく思った か、その想像は容易かった。 ___いい気はしないよな。 オレノセイジャナイケド。 ドウニモナラナイコトダシ。 しかし、どう考えてみても、自分の方が気を遣わなければならない。 立場ハワカッテイルツモリ、ダシ。 ___でも、せめて、顔くらい似ていてくれたらよかったのにな。本当に似て いない。かすってもいないもんな。 瞬一は小さく息を吐いた。 兄が自分を快く思っていないだろうことは、この家に来た時から察せられて いたし、仕方のないことと納得もしていた。それは特別に賢い子供でなくとも わかることだった。 ダッテ、兄サンハ、オレヲ見ヨウトモシナカッタ。 彼と暮らしたのは、五年かそこら。そしてその間、ただの一度も、兄弟として 向き合ったことはなかった。 ___オレの方から体当たりでって、そんなわけには行かなかったし。所詮、 オレは後妻が連れて来た子供で、兄さんから見れば、面倒な厄介者だったはず だからな。仕方ないけど。 ダケド。 ___だけど、言わせてもらえるなら、半分だけど、でも、血は繋がっている んだよ。何たって、父親は同じなんだから。 ここで迷っていても、埒が明かない。用が済めば、髪さえ乾けば、兄は出て 来る。女の子じゃあるまいし、洗面所に籠城はしないだろう。人はそうそう 変わらないのだ。当然、兄も瞬一には関心を持たない、瞬一の知っている兄の まま、帰って来たはずだ。向こうからは寄って来ないだろう。ならば、知らん ぷりを通せないこともない。今更、仲良くなりたいわけでもなかった。 ___でも、タカシのことがある。オレの部屋なんて、近づきもしないだろう けど。でも、見つかったら、やばいよな。いくら淡泊な人でも見咎めるよな? 背の高い、強面(こわもて)の兄。もし、彼に天使を取り上げられたら、と 思うと、ぞっとする。到底、“正面突破”など出来そうになかった。気力が あれば、瓦は割れるかも知れない。だが、どう足掻いても鉄板相手には通じ ない。守りたいという意欲だけでは、どうにもならないのだ。 ___面倒は未然に防ごう。何泊するのか聞いて、それから対応を考えよう。 まさか一ヶ月も、二ヶ月もいないよな? 確か、前回はやっぱり、急に帰って 来て、一晩泊まって、彼女の所に行ったような気がする。ああ、そう。帰った その日は彼女がフライトでいなかったんだ。 今回もそんなものだろう。 ___よし。 意を決し、瞬一は思いきって、ドアを開け、次いで息を呑んだ。 ___開けてビックリ、やで。何やのん? 「よっ、話、済んだ?」 「何でやねん? 何で、あんた、パジャマ着て、そこにおんねん? 何で、 オレのドライヤー、使ってんねん?」 「何でって、寝る前に風呂入るの、普通だろ? んで、パジャマ着て、髪を 乾かす、当たり前じゃん?」 見覚えのないパジャマを着、まるで自分の家でそうしているかのような顔で レンは髪を乾かしていた。 「誰でもすることじゃん? ごくナチュラルな日常生活ってやつだろ?」 「その日常ゆーのを、何で“うち”でやっとんねん? ここはオレの家やで」 「おまえって結構、ガラ悪いのな」 怒って見せても糠に釘、だ。鼻歌交じりで、楽しげに茶色い髪をさわさわと 揺すりながら、レンは仕上げに取りかかる。 「そのパジャマ、わざわざ持って来てたんか?」 「うん」 ___泊まる気だったんだ。 渋々ながら納得し、瞬一は奥の風呂場からは何の物音もしないことに気を留め た。 「コウ君は? 一緒やないん?」 「もう、寝たよ。あいつ、朝、すっげぇ早いの。ニワトリか?みたいな早さ なの」 「ちなみに、どこで寝てんの?」 「“おまえの”、家の客間。そこ」 わざわざ強調し、レンは指差し、答える。 「図々しい」 「お客だもん。客間使うの、当たり前だろ? 家族の部屋には近づきゃしない よ」 ドンナ理屈ヤネン? 「それより、新情報、あった? タカシは泣き疲れて寝ちゃったのか」 「頭の中、勝手に読むの、やめてくれへん?」 「説明してもらうより、ずっと早いじゃん? おまえの手間、省いてやった んだよ」 ドライヤーを手に鏡を覗き込んでいたレンは手を止め、振り向いた。 「おまえも大変なんだな。複雑なんだ、この家も。本当、人間って、色々、 大変だよな。その点、天使はシンプルでいいわ」 レンが何を言っているのか、すぐにわかった。思わず、眉が吊り上がる。 「勝手に読むなってッ___」 「動揺してんだ?」 「“複雑”やけど、オレに非はないんや」 「それは、“親にはある”って意味?」 「どちらかって言うたら、そうやろ? 二人の癖が悪いから、こうなったって だけで、オレに非はない。父さんが妻子持ちのくせに母さんに手、出したんが 悪い。母さんも妻子持ちやって知ってて、ノコノコ付いて行って、おまけに オレを産んだんが悪いんや。オレのどこが悪いんや?」 |
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