タカシは耳を澄まし、自分が呼び掛けた相手が立てる物音なり、返事なりを
心待ちにしている様子だった。今はあれこれ話し掛け、邪魔をすべきではない
だろう。瞬一は仕方なく、周囲に視線を滑らせてみる。背後にはあの背の高い
草の林が広がっているばかりだ。
___長居したい所じゃなかった。ヒルまでいたんじゃ、適わないし。
そんな所にいるのは嫌だから、タカシに手を引かれるまま、ほとんど口を開く
こともなく、ぬかるみに足を取られながらも精一杯、早足でここ、沼の縁まで
やって来た。
___ここも、パッとはしないけど。でも、タカシが平気だって言うんなら。
取り敢えず、ここは安全ではあるようだ。そう思うと幾分、気は楽になった。
しかし、こうして立ち止まり、改めて見つめ、考えてみても、やはり、ここは
あまりに面妖な、全てがおかしな異世界だった。
___何か、変だ。肌に触れる、こう、空気の感触も違うって、そんな感じ。
ここって一体、どこなんだろ? いつもの、“人間界”ではなくて。タカシが
生まれ育った“天界”でもないんだとしたら。
一体、ココハ、ドコナンダ? 

 薄暗く、肌寒い。もし、傍らにこの天使がいなかったら、彼の翼が放つ淡い
輝きがなかったら、完全な闇に閉ざされてしまうのではないか? そんな不安
が胸を過ぎるほど、辺りは不思議な、白っぽいもやのような何かに覆われて、
まるで蓋でもされているようだ。束の間、眺めているだけで言いようのない
閉塞感に襲われる。水面を這うように覆う、もや。闇ともやとが混然として、
酷く落ち着かない心地を誘う灰色の世界が今、瞬一を取り囲んでいる。
___誰もいないのかな? それとも、この分厚いもやみたいなやつに気配を
吸い取られるのかな? 生活音がない世界って、静か過ぎるんだな。だから、
居心地悪いんだ。いつもは車とか、洗濯機とか、いろんな音が溢れて騒々しい
世界に住んでいるわけだから。
 見たくはないが、事実は知りたい。その欲望に従い、恐る恐る、もう一度、
振り返ってみた。草の林はさわさわとそよぎ、寒々しい音が一層、禍々しさを
醸し出している。それ以外には何の物音もしなかった。本当に誰もいないよう
で、だが、辺りのおどろおどろしさに慣れるに従って、瞬一は何かの“気配”
を感じ取る。確かに何か、いる。そう、思う。
___遠巻きにこっちの様子を窺っているって、そんな感じ。影も形も見え
ないけど、でも、いる。そう、わかる。
最初は何も感じなかった。
___段々、いや、急に、急に強く、はっきりと感じるようになった。それ
って、もしかして、どんどん、こっちに寄って来ているってこと? 集まって
来ているとか? まさか、いきなり襲われたりとか、しないよな? 
不安に気をもむ。しかし、タカシはと言えば、万事、“わかっている”のか、
いっそ、何も気付いていないのか、至って落ち着いて、平穏なものだった。
ココジャ、怖ガラナクテモイイッテコトカ。
___“魔物”の威光とか、そんなことを言っていたよな。でも、それって、
つまり、ここが、その、、、。
「いました!」 
天使の明るい声に瞬一は我に返る。
「よかった。覚えていてくれたようです」
満足そうに微笑み、タカシはほら、と水面を指差して見せた。その指の先、
すーっと水が頭をもたげ、何かが勢い良く近寄って来る様が見える。
「魚なん?」
「そうですね、魚に近いかも知れませんね」
彼の様子に、瞬一はどこか、上の空と言うのか、話半分という印象を受ける。
いつでも、きちんと丁寧に向き合って、優しく応じてくれる日常からすると、
らしくない態度だとも言えるが、どうやら、彼の心はすっかり、昔懐かしい
“そっち”に向けられていて、瞬一にばかり構ってもいられないらしい。
___そりゃあ、懐かしいヒトに会ったら、嬉しいし。気持ちはわかるけど。
デモ。
チョット淋シイ、カナ。
「あれっ」
不思議そうな、小さな声を上げ、そのまま、タカシはパシャバシャと膝上まで
水に入り、その誰か、魚のようなそれに歩み寄って行く。何事かを話し掛ける
声は嬉しそうで、心配のいらない相手なのだとはわかる。
ダケド。
___お魚さん相手に普通に喋るんだな、天使って。あ、でも、タカシは例外
か。コウ君もレン君も、タカシは変わったヒトだって、本気で言っていたもん
な。
ソレニシテモ。
___凄ぉく楽しそうだよな。天使の言葉じゃ、何喋っているのか、さっぱり
わからないけど。

 興味深く眺めていると、ふいにタカシは振り返り、突っ立った瞬一の表情を
見たようだった。もしかしたら、瞬一は取り残されて、淋しげな、いや、それ
どころか、恨めしげな顔すらしていたのかも知れない。再び、自分の足下の魚
に話し掛ける天使の言葉は日本語に替わっていた。
「おまえ、一人ですか? そう。淋しかったんですね、おまえも」
タカシの様子からして、害はないらしい。好奇心に駆られ、瞬一もそっと歩み
寄る。ズボッ、ズボッ、とコミカルにいちいち、沈み込む足元が忌々しいのだ
が。
___そう言えば。さっき、ここに来る時だって、変と言えば変だったよな。
何で、オレより重いはずのタカシがわりと普通に歩けて、オレだけズブズブ、
思いっ切り、沈むわけ? タカシの方が背が高いし、見た目よりは軽いらしい
けど、それでもさ、あんなデッカい翼まで背負っているのに。おかしいよな。
苦心して、ようやく近付き、タカシの手元にいるそれを見る。
「うぇっ!」
思わず口を突いて出た悲鳴にタカシが振り向いた。
「綺麗でしょ? 鮮やかでしょ?」
「う、うん」
真っ赤な魚。こんなにまで赤い、赤と言う色さえ、初めて見る。まして、全身
全てがその色に染まった魚など想像したこともなかった。白っぽい泥のような
液体で満ちた沼からにょきっと突き出た一本角と、どうやら平べったいらしい
身体。その全てが赤く、毒々しい。
___ああ、あれ、あれだ。チョウチンアンコウを真っ平らにしたら、こんな
感じ。ルアー付きだよ、これ。このぶら下がっているやつで漁をするってこと
かな? 普通、疑似餌だよな、こーゆーの。灯りが点くんだよな、大抵。
タカシの方は瞬一の戸惑いなり、推測なりには頓着しなかった。気味悪がって
いることに気付いてもいないのかも知れない。
___タカシ的には気味悪くも何ともないみたいだ。オレ相手の時と、全然、
態度、変わらないもん。
アレ? 
___もしかして、オレとこの不気味な奴との違いがわからないとか?
軽く凹む。
「あちこち、こんなにケガをして。ごめんなさい。ずっと治してやれなくて」
タカシが赤い魚体をさする度、白泥がプクプクと小さく、泡立った。
___どうなっているんだろ? 何やっているんだ?タカシは。
「ほら、これで良し。もう大丈夫ですよ」
治療シタンダ。
「ふふっ、御機嫌ですか? でも、無茶はダメですよ、ねっ」
___魚もすりすり擦り寄るんだ。仲良しなんだな。
デモ、、、。
「あの、タカシ」
「何ですか?」
「ここから先、どこに行くの? この沼みたいな所、まさか歩いて行けそうも
ないし」
「この子が連れて来てくれます」
「連れて来る? 連れて行ってくれる、じゃなくて?」
「ええ。連れて来てくれる、ですよ。この、ずっと先で眠っているらしくて、
僕が呼んだくらいでは目を覚ましてくれそうもないんです。だから、この子が
代わりに起こして、連れて来てくれるって」
「タカシ、ここに、他にもまだ知っているヒト、いるの?」
「ええ。昔はよく来ていましたからね」
「よく?」
「頼みましたよ」
 魚相手に楽しそうな天使の様子は微笑ましい。だが、タカシはくるりと反転
し、泳ぎ去る魚を見送る方に気を取られ、瞬一の話など聞いていなかった。
___仕方がないけど。でも、魚が何を呼びに行ったんだろう? 大体、ここ
から、どこかに移動するんだろ? それでそのヒトを起こしに行ってもらった
ってことはつまり、そのヒトが道案内してくれるか、乗せて行ってくれるか、
そんなところだよな。ここまで来たら、オレだって、もう何が出たって驚きゃ
しないつもりだけど・・・。
「瞬一」
呼ばれて、ハッと背筋を伸ばす。
「どうかしましたか?」
「あ、いや。どんなヒトが来るのかな、と思って」
「もう来ていますよ」
「もう?」
「ほら」
タカシに促され、その方向に目を凝らす。もやの中、すーっと静かに進み出て
来たそれは一艘の小舟だった。

 

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