「背中が痛いって? 倒れて、それっきりって? 何、それ?」
「オレが言った通り、なぞってどうすんの? インコじゃあるまいし。物真似
したって、意味ないよ。人間、いつもオリジナルじゃなきゃ」
「そ、そうやけど。でも、何で? 何で、そんな肝腎なこと、真っ先に教えて
くれへんのや?」
「意地が悪いから」
身も蓋もない。だが、胸を張って見せる白石には欠片も悪びれた様子はない。
「タカシね、疲れているらしくて、背中が痛いらしいの。だから、部屋で休む
ように勧めて、たぶん、さっき、寝たかな、くらい。瞬一に最初に教えたら、
またドタドタドターって駆け上がって行って、キーキー騒ぐでしょ? だから
先に教えないで、後回しにしたの。わかった? そこら辺、良く考えてから、
行動するように。眠っているようなら、そのまま引き返して来ること。いい?
 御飯なんか、後でまー君が帰った時にでも、一緒に食べればいいんだから。
いいね? 本当にわかった?」
「うん、わかった。そうする」
素直に頷き、今日ばかりはゆっくりと、足音に気を付けて階段を登る。白石の
言う通り、まだ寝付いたばかりなのなら、騒いで起こしては気の毒だ。
___あれより、これより、タカシの体調の方が大事だもんな。この頃、元気
いっぱいとは言い難かったし。やっぱり、心労があったのかな? コウ君達、
ちゃんとタカシには連絡、付けてんのかな? 佐原君も東京に帰って来ている
って、知らせているのかな? 
『一切、触れるな』
そのお達しに従い、瞬一は意識して、三人のことには触れないように心掛けて
過している。だが、不思議なことにタカシの方からその話題に触れて来ること
もなかった。
___もしかして、ずっと心配しぱなしなのかな、天界のこととか、佐原君の
こととか。オレの受験のこととか、諸々。
ささやかだが、今日、内の一つは解消してやれると思う。
___先生達も確定だろうって言ってくれたし。
手応えはあった。目標に向け、ようやく確実な一歩を踏み出した自負もある。
褒メテモラエル、カナ? 
淡い期待を胸にしまい込み、そっと忍び込む、タカシの寝室。見慣れた部屋は
今日も静かで、やはり、きっちりと整えられていた。薄明かりの下、不自然に
盛り上がった羽根布団の具合から見るに、どうやら、タカシはうつ伏せに寝て
いて、背中の翼が十分にたたまれていない状態、ならしい。
___あんな恰好やったら、寝苦しいんと違うんかな? 
あれでは却って、疲れるのではないか? そういぶかりながら、そろりそろり
と歩み寄る。こちらを向いて眠っているようだ。覗き込み、そう気付いた途端
にうっすらと目が開いた。
人間ジャナインダ、コノヒトハ。
時々、普段は慣れて忘れてしまい、殊更、意識もしなくなっている現実を実感
させられることがある。これがそんな瞬間の一つだった。
 未だ見慣れない光景に息を呑む。閉じていた目を開けただけで、両瞼の合間
から光がこぼれる人間なぞ、有り得ない。ごく淡く、微かな、すぐに消え去る
光だが、それでも果樹園の天使特有の暖かな、あの光だとわかる。
___オパールみたいなんやもん。
暗がりでなくてはならない。しかも、間近にいなければ、決して捉えることの
出来ないそれを見た人間など、数千年の内でも、ごく希だろう。
___いつもそう、ってわけでもないらしいし。
ならば、天界でさえ、そう多くはないはずだ。
___今度、佐原君とか、コウ君達に聞いてみようかな。見たこと、あるん?
って。
少しばかり誇らしい。
デモ。
万が一にも、三人が未体験だった場合、その妬み混じりの怒りは生半端なもの
ではないだろう。そう気付き、慌てて、取り止めようと考え直した。
___オレだって、ある日、気付いて、ビックリして。で、タカシに聞いて、
またビックリ、だったんだもんな。
『夢と次の夢の間、なのかな。良くはわからないんですけれど』
『わからへんの?』
『だって、自分のことってわからないものですし、他の天使と一緒に休むこと
はないし。そう言えば、昔、指摘されたことがあるような、そんな気もします
ね』
本人すら、そんな程度の認識のようだ。
___可愛いオマケみたいなもん、だよね。普段でも十分、可愛いのに、たま
に一段と可愛いオマケ付き、みたいな。増量キャンペーンより嬉しい、みたい
な。
自分の頬がだらしなく緩むのを感じながら、ふと、もう一つ気付いて、瞬一は
目を凝らす。タカシは何か、紙の束を枕にしているようだ。正確には束の上に
右頬を載せたまま、眠っているようなのだ。
___何、敷き込んでいるんだろ? 
その手の紙に見覚えがないわけではない。思い付いて一旦、タカシから離れ、
チェストへ歩み寄る。するとやはり、二つの紙製の小山の内の、不可解な伝承
や何かを記した紙の束の方が少なくなっている。
___読んでいる内に眠ったってことか。
魔物を懐かしみながら眠り、夢でも見ていたのだろうか? 魔物。大昔。引き
離された、タカシの恋人。しかし、人間界の感覚で言えば、二人は恋人同士に
は該当しないらしい。佐原曰く、
『天使はあ〜んなこととか、こぉ〜んなこととか、しないから。恋人って概念
自体、ないんだよね』
『されちゃったり、は、ないん?』
『何、ごにょごにょ、小っちぇ声で聞いてんだよ? 顔、真っ赤だぞ? この
マセガキが! 耳年増って、余計に嫌らしくね?』
『だってぇ』
『魔物にはある、はずなんだけどな』
佐原は何かを思うように声をひそめた。
『タカシには何もしたこと、ないんじゃねーのかな、その魔物さん。だって、
もし、何かされでもしたら、怖がりなタカシがまた天界を抜け出して、そいつ
に会いに行くようなこと、絶対、しないと思うんだよね』
もっともだ。
『じゃ、プラトニックラブなん?』
『まぁ、な。でも』
『でも?』
『その魔物って奴、相当な変わり者だよな。わざわざ“我慢大会”しに会って
いたようなもんだもんな。マゾなのか?』
茶化したように小さく笑い、佐原は息を吐いた。
『わけがわかんねぇよ、その魔物って奴はよぉ』
元々、タカシの傍にいて、タカシと魔物との経緯を全く知らなかった佐原には
瞬一には計り知れない口惜しさがあるのだろう。
『大体、何で“あいつ”はタカシに、そんな魔物の後を追わせたんだろう? 
会えるはず、ないのに。いや、会えたら、追わせたりなんか、しないんだろう
けど』
佐原は北ッ側の親玉の真意を量り切れず、悩んでいるようだ。
___佐原君にわからないこと、オレにわかるはずもないんだけど。
しかし。なぜ、魔物はタカシを連れて、魔界へ逃げ込むという、彼にとっては
簡単で、身の安全も図ることが出来る、言わば、当たり前の道を選ばなかった
のだろう? 
___せっかくタカシが魔物さんを逃がそうと、時間まで止めたのに。
イヤ。
自分が今、何より知りたいことは大昔の魔物の心中などではない。オレは現実
逃避をしているだけだ。そう知っている。タカシと出会った頃。魔物との再会
を夢に見ながら、しかし、自分と気付いてもらえなかったら、どんなに哀しい
だろうかと嘆くタカシに瞬一はこの口で言ったはずだ。
『はじめましてって、言えばいいんだよ』
そして、先だっての兄の言葉。
『寝惚けていたのかな、天使にはじめましてって、言われたよ』
ヤッパリ。
ヤッパリ。
ヤッパリ。
デモ。
震える手をギュッと強く、握り締める。粉砕された魔物の魂がもし、ずっと、
ずっと昔、地上に堕ちた果樹園の天使に導かれ、再生したのだとして。それが
例え、兄なのだとしても。彼に前世の記憶はない。
___記憶喪失と一緒、だよな。顔だけ同じで、別人、みたいな。
ふっと、レンの笑い声を思い出す。
『何回、生まれ変わっても、瞬一は瞬一のまんまだよ。例え、どっかでオデコ
をぶつけて、記憶を失くしても、瞬一のまんまなんだ。根暗で、生真面目で、
要領が悪いの、瞬一の、瞬一“らしさ”なんだからね。どうせなら頑張って、
それを長所にしなよ。だって、お調子者で要領の良い瞬一なんて、気味が悪い
もん。ねっ』
クラスメイトの他愛無い、からかいに肩を落として帰宅した日。瞬一に掛けて
くれたレンの言葉だ。そこから何か、ヒントは拾えないものだろうか? 
___オレはオレのまんまで、お兄ちゃんが魔物さんのままなんだとしても。
でも、前世の記憶がなければ、やっぱり、そう簡単に恋人同士には戻れない、
よね? いくらお兄ちゃんが恋のハンターでも、さすがに天使を狩ろうなんて
気にはなれない、よね? 
「ん。瞬一?」
「タカシ?」
タカシの声に我に返り、慌てて、ベッドへ駆け寄ってみたが、未だ、覚醒には
及ばないらしく、長い睫毛が躊躇するように小さく揺れる。まるで何かを語る
ように、泣き出すように。
___タカシはどう思っているんだろう? とっくにお兄ちゃんだって、この
人だって、気付いていたんだよね。だから、はじめまして、だったんだよね。
それなのに、知らんぷりで。

 

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