足元にはアイアン製の螺旋階段が緩くアールを描きながら、階下へと伸びて
いる。いかにも新進気鋭の若い画家がこだわって仕上げたものらしく、見映え
の方は素晴らしい。だが、膝の屈伸が適うようになったとは言え、病み上がり
同然のタカシにはやはり、難度の高そうな構造体には違いなかった。
___アンチバリアフリー言う感じやもんな。
瞬一に伴われて降りれば、今度は苦心して上がらなければならない。タカシを
そんな危険にさらしたくはない。加えて、向こうから様子を窺う、レオの身体
を借りた魚に恰好の良い出番を用意してやるのもいささか腹立たしかった。
___だって、見掛けはレオ君なんやもん。大体。ほとんど同居しとるような
もんやん、あいつ。何でやねん? ごろつきのくせに。
ムカツク!
レオ自身にはきっと、敬愛する柾明の事務所で下働きをしている、その程度の
認識しかないのだろうが、多少、不条理と心得つつも、湧き上がる妬ましさは
やはり、どうしても押し隠せないのだ。
「本当、ここでええよ。それよりな、タカシ」
我ながら随分、甘えた声音ではないか。照れを覚えつつも、以前と変わらず、
瞬一の真意を知ろうと覗き込んでもらえる快楽は手放し難かった。
「何です?」
「オレな、今度は」
残念ながら、続きは呑み込むことになった。内ポケットの携帯電話が勢い良く
鳴り始めたからだ。聞き覚えたメロディーに気を取られ、慌てて、ジャケット
の内側を漁る。
「はい。ああ、どーやったん? お祖母ちゃん、持ち直した? うん、そら、
良かったな。えっ? もう、こっち、戻って来とるん? ああ。レポートな。
期日は待ってもろうたんやろ? うん。そうやな。うん。えっ、そら、あかん
で。危ないて」
携帯電話に取り付けた二つの翼が揺れて、時折、キスでもするようにぶつかる
のを見つめながら、何とはなく後ろのタカシを振り返れずにいる。
「ダメやって。オレも行くわ。明日の朝、迎えに行くから。一緒に行けばええ
やん? 何でって、あの先生、ドスケベで有名やんか。一人でノコノコ入って
行ったら、絶対、あかん。先輩達も言うとったやん? 聞いたやろ? ええな
? 勝手に一人で行ったら、あかんからな。うん。じゃ、明日な。おやすみ」
「何だか」
聞くともなしにただ、近くに立っていたのだろうタカシが口を開いた。
「ん?」
「瞬一の方が保護者のようですね」
微笑んだ顔は喜んでいるようにしか見えない。さしずめ、おませな幼稚園児が
ステディ気取りで手を繋いでいる様子を見て、笑う母親達のような表情だ。
オイッ。
ヤキモチ妬クトコロヤデ、ココ。
一抹の寂しさを感じながら、それでも補足と訂正は加えておくことにした。
「学校の友達やねん。その子も大阪の端っこの出身なんやて。お祖父ちゃん、
お祖母ちゃん大好きっ子でな。何か、波長が合うみたいやねん」
「お祖母様の具合がお悪いんですか?」
「うん。でも、もう大丈夫やって。寒いから気ィ付けんとな」
「本当に」
「あのな、タカシ」
「何です?」
「あの」
___正味、さっきの話の続きじゃないんだけど。さすがに、また来てもいい
って、聞き辛いよな。やましいことはないんだけどな。仲は良い方だもんな、
オレ達。やっぱり、勘違いされても仕方ない、よな。あの会話の後じゃ、な」
「瞬一?」
「ああ、そう。あの。あのな、お兄ちゃん、留守が多いの?」
食卓では敢えて、兄の話はしなかった。わざわざ、いもしない男を話題にして
せっかくの一時を台無しにしたくなかったからだ。
「そうでもないですよ。忙しいようですけれど。でも。そうですね。帰らない
って言っていて、帰って来ることもあるし、いるものだと思っていたら本当は
出掛けていたってこともありますし。目が覚めてみないとわからない、みたい
な」
「放し飼いなんやな」
「放し飼い? 放し飼いって、犬とか、猫を屋外で飼うことでしょ? うち、
別に何も、飼っていませんけど」
小舟を抱えたまま、本気で言っているらしい彼に下世話な話など、とても繰り
出せそうにもない。
「そうだよね。タカシだもんね。仕方ないよね。タカシがうちのおかんみたい
に嫉妬深くて、おっかないのもどーかと思うから、仕方ないんだよね」
「嫉妬深い?」
「うちのおかんの話。ま、どうでもいい話だよね。あれはあれで上手くいって
んだからさ。それより、あの」
「ね、瞬一。本当に近い内に遊びに来て下さいね。今度は是非、柾明もいる時
に。瞬一が来てくれたら、あのヒト、喜びますから」
「そぉかな? 嫌だと思うけどな」
___オレが会いたいのはタカシだけだし。それに。一応、オレはお兄ちゃん
的には未来の恋敵かも知れないわけだし。
未だタカシ争奪レースから降りたつもりはないのだ。
___今は出る幕なし、だけどな。
 まずは一人前にならなければならない。そう密かに意気込む瞬一を尻目に、
タカシはそっと小首を傾げた。
「どうして? だって、二人は兄弟でしょう?」
兄弟。なかなか甘美な響きを持つ言葉のようだ。そんな感傷に浸りつつ、ふと
幼い弟の寝顔を思い出した。例え、隆の生まれ変わりでなかったとしても。
___確かに他所の子よりはずぅぅっと可愛い、かな。
この感覚が肉親特有の、兄弟の感覚なのだとしたら。
ダッタラ。
「じゃあ、お兄ちゃんは魔王さんに会いたがっていると思うの?」
少しばかり意地の悪い質問かと思いながら放った問いに、タカシは意外にも、
あっさりと頷いて返した。
「そうですね。将来的には会いたいのではないでしょうか?」
「ええっ。だって、わざわざ、魔界と人間界とに別れて生きることにしたのに
? 何で?」
「でも、いがみ合っていた結果ではないのだろうし。そもそも、二人は魔物と
しては変わった考え方をするヒト達だったわけだし。それに。時々は同じ血を
持つヒトに会いたいものなのではないかなと思って」
タカシは後半、声を落とした。同じ血を持つ者。ある意味、兄にとっては魚や
小舟がいれば、擬似的な仲間意識を味わえるものなのかも知れないが、タカシ
はそうはいかない。翼を失い、それと同時に天界へ帰る資格を失ってしまって
いるのだ。
___お迎えが来ないかぐや姫みたいな、そんなもんなんだもんな。
寂シイヨナ、ヤッパリ。
「瞬一」
「何?」
「もし、どこかでコウに会ったら、近況を聞いておいて下さいね」
「そうしてあげたいのは山々だけど。でも、オレ、ヨーロッパになんか、行く
用事、ないよ。親も日本に帰って来たし、学生だし。庶務のヒト達にもめった
に会えないんだもの。とてもそんな期待には応えられない。ごめんよ。でも、
出来もしない空約束して、後でガッカリさせるのはもっとかわいそうだから、
先に言ってしまうけど」
「大丈夫。わざわざ瞬一が行かなくても、会えますよ」
「何で? ヨーロッパと日本にいるのに?」
「コウは自在に行き来出来ます。人間界と天界を行き来出来る子がヨーロッパ
と日本を往復するのに飛行機に乗る必要はないでしょう?」
「ああ、そうか」
軽く納得する瞬一にもう一言、タカシは続けた。
「それに」
「それに?」
「時々、コウなんじゃないか、近くに来ているんじゃないかって、感じること
があって。柾明がいる所にあの子が来るはず、ないんですけれど」
「そうだろうね。普通、近付いて来ないよね。でも、タカシが勘違いするはず
もないよね。コウ君達とは切っても切れない縁があるんだもんね。わかった。
もし、何処かでコウ君に会ったら、タカシは元気だって伝えるし、コウ君達の
様子も聞いておく。向こうもネタ、いっぱい持っているはずだから」
「佐原の?」
クスリと小さく笑うタカシはすこぶる美しい。
「お兄ちゃん、タカシのことは大事にしとるんやね」
聞き取れなかったタカシが顔を上げ、不思議そうに首を傾げるのを見て、瞬一
も微笑んだ。
「大丈夫。また来るよ。今度は弟を連れて来るね。人間の赤ちゃん、見たこと
ないんでしょ?」
「本当に?」
「今、本気で嬉しそうな顔したな、タカシ。久方ぶりにオレに会った時より、
ずっと嬉しそうだった。寂しいな。傷付くやん、それ」
「だって。あんまり人間の知人は増やさない方がいいから、ブゥーさんと瞬一
が来てくれると凄く嬉しい。その上、赤ちゃんが一緒なら、尚嬉しいから」
「そんなものなのかな。それじゃ、とりあえず、オレに一回、電話して。オレ
の番号は変わっていないから」
「わかりました」
タカシはにこやかだ。この兄が整えた、美しいが、狭い世界に、それでも安住
しているのかも知れない。心細さを包み隠しながらも。
「今な」
「ん?」
「すごぉーくタカシを抱き締めたい気分なんだけど、オレの宿敵がオレを凄い
目で睨んでんだよ。決行したら、間違いなく噛まれるんだろうな」
「たぶん」
小舟の黄金の目があまりに怖い。今度はデニムの上から、などという手加減は
しないぞと、言外に脅かしているようだ。
「名残惜しいけど、電車の時間もあるから仕方ないね。おいとまするよ。じゃ
あね、タカシ。風邪には気を付けて」
「はい。おやすみなさい、瞬一。瞬一も気を付けて」
 タカシと別れて、兄の家を出る。豪奢なガラス張りのエレベーターに乗り、
華やかな街のイルミネーションを眺めながら、ゆっくりと降りて行く。
___首尾良くコウ君に会えれば良いけれど。
一階へ到着し、開いた扉。真っ黒なコートが現れた。
「よ、瞬一」
「お兄ちゃん?」
今日は戻らない予定だったのではないか? 
「オレは気まぐれだよ。それに、その方がタカシも喜ぶ」
「わざわざ寂しがらせといて、それから喜ばせるん? 大人はようわからへん
な」
長い腕が真っ赤な大きな箱を抱えている。プレゼント然としたそれはどう見て
も、タカシへの土産なのだろう。
「結構、溺愛しとるんやね」
「オレは駅前でイチャイチャ小一時間、ジュース飲んでいられるほど、お若く
ないんでね。寒いのは嫌だからな」
グッ、と言葉に詰まる。
「な、何で知っとるん?」
「秘密。手の内は見せないものだよ。それより」
兄は空いた手で自分のコートのポケットから、紙包みを取り出した。
「おまえに託けておく。あのタカシ大好きv天使に渡しておいてくれ」
「コウ君? お兄ちゃんがコウ君にプレゼントするん?」
「いや。もう一人の方、そいつの捜し物だよ」
「もう一人って、レン君の? それって?」
「その内、遊びに来てやれよ。あいつ、ヒトの成長を見守るのが趣味だから」
スタスタとエレベーターに乗り込む兄は振り返りもしなかった。ただ、瞬一の
右手には紙包みが一つ、取り残された。中に箱が入っているとわかるそれ。
___レン君の捜し物って。まさか、お父さんの金時計、なのかな。
「でも、いくら何でも、そうそう都合良くコウ君には会えへんやろ?」
「馬鹿! 良い歳して、独り言なんか、言ってんじゃねぇよ。気持ち悪い奴が
いると思われるだろ?」
「えっ?」
振り返った先。相変わらず、小柄でオシャレな、気の強そうな若者の姿をした
天使が一人、立っていた。
「コウ君!」
彼の出現に驚き、次いで感激に震え、飛び付こうとした瞬一をあっさりとコウ
はかわした。
「うぜぇ。せっかくだからそれ、貰っておいてやるよ」
兄に託された包みをコウは指差しているのだ。
「魔物の施しは受けん!とか、そーゆー威勢の良いこと、言わんでええの?」
「レンが喜ぶ方がいい。やり口はわからねぇけど、オレ達には捜せなかった物
だからな」
「ああ、そう」
「それに。無料じゃ、ねぇから」
「無料じゃ、ないって?」
「つまり、時々、やって来て、タカシの周囲の人間の記憶をどーにかしろよ、
って、そーゆー意味だろ?」
「記憶?」
「ああ。タカシは歳を取らねぇもん。二、三年は良くても、五、六年経てば、
明らかに変だろう。あのヒト一人だけ、全く変わらねぇんだもん。要約するに
自分達は“時期”が来るまで時々、転居しながら地味に人間界で生きて行く、
だから放っておけと、あのオッサンは言っているわけだ。それに関して、オレ
がとやかく言うことはねぇ。戦乱にならなければ、タカシは安気だからな」
「ああ。そこ、ね」
結局、タカシの心身の安全が何より、肝腎ならしい。
___気持ちはわかるけど。
お互い、今すぐ何か、タカシのためにしてやれるわけではないのだ。
「おまえも当たり前に生きな。他に出来ることはねぇからな」
「うん。そうだね」
ガサガサと包みを破り、目当ての金時計を取り出すと、コウは感慨深げに目を
細め、しばし見つめると、自分の尻のポケットにねじ込んだ。次いで箱と包装
紙とを瞬一の手に押し付ける。
「じゃ、またな」
エッ? 
煙のように忽然と、コウは姿をかき消していた。
「おいっ! ゴミくらい、ゴミ箱に捨ててから行きやがれ!」
 悪態を吐き、慌てて、キョロキョロと周囲に視線を走らせた。幸い、辺りに
人影はないものの、ゴミ箱もない。仕方なく自分のコートのポケットに紙屑を
押し込み、逃げるように高級マンションを後にした。
___何でやねん? 今度、会うたら、絶対、ギャフンと言わせてやる。天使
なんかに負けへんで。何が出たって、オレは食い下がる。絶対、諦めへんから
な。明日も、明後日も、頑張る。リタイヤなんかせぇへんからな。
ふと、立ち止まる。
___“時期”って、いつのことやろ? 椿さんの寿命が尽きて、あのヒトが
目覚める頃って意味、なんか? 
その時、兄は一体、何をする気なのだろう? 手元に翼を失った果樹園の天使
を連れて。それを知るためには生きるしかない。
___オレは諦めへん。行ける所まで行ってやんねん。
そう決めていた。

 

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