「タカシ!」
タカシが身を起こそうとするところを構わず、飛び付いて抱き締める。心もち
痩せたのではないか? 一瞬、そう感じはしたものの、覚えていた感触はその
ままだ。柔らかくて、温かい。そして、ごくうっすらと、あの甘い香りが鼻先
をくすぐってもくれた。
タカシダ。
本物ノ。
夢でも、幻でも、思い出でもなく。
「瞬一」
名前を呼んでくれる優しい声にも、何ら変わりはない。何より、彼がまとって
いたふんわりとした雰囲気が今も、のんびりとタカシを包み、タカシを象って
いる。頭を撫でられて、やはり、自分は未だ、子供だと認識されている。そう
気取って、瞬一は小さく苦笑いをこぼした。
___大学生と高校生とは全然、違うものなんやで? 雲泥の差があるんや。
だって、オレ、自分で運転して、自分の車でバイトに通っとるんやもん。
瞬一の苦笑に気付いたのだろう。やんわりと身体を外し、タカシは不思議そう
に瞬一を見上げた。
「何? どうかしましたか?」
「ううん。でも、タカシは変わらへんね。オレは少しは変わったつもりなんや
けど。タカシ的には変わらへんのかな? オレには成長の跡、見えへん?」
「いいえ、そんなことはありません。ちゃんと見えます。瞬一は変わりました
よ。大きくなって、すっかり頼もしくなりました」
「ほんま?」
「ほんま」
顔を見合わせ、同時に勢い良く笑い出す。
「タカシ、相変わらず、ボケキャラやな」
「そんなこと、瞬一にだけは言われたくありませんから」
「何や、それ?」
ソファーから身体を起こすタカシを手伝って、瞬一は思わず、眉をひそめた。
明らかにタカシの身体が重いのだ。
「ああ。重くなったんでしょう? 翼がないと、体質が変わるみたいで。この
頃、ようやく自分の重さに慣れて、歩き回れるようになったんですよ」
屈託のない笑みを見ると、タカシ本人は大したことではないと考えているのか
も知れない。
「こんな重いと不自由するやろ?」
「重いって言っても、人間界における適正な体重に変わっただけだと思います
し。それに」
「それに?」
「一つ、不自由が出来れば、一つ、便利なことも出来ますから」
「便利なこと?」
「ほら」
そう言って、タカシは自分の右膝を指した。
「曲がっているでしょ? ちゃんと瞬一みたいに曲げたり、伸ばしたり出来る
んですよ。ほらね、屈伸が出来るんです」
タカシは若干、誇らしげに自分の右足を動かして見せた。
「ああー。ほんまや。普通に動いとる。えっ。でも。えっ。確か、兵隊さんに
取り押さえられて、それっきり曲がらんようになったって言うとったよね?」
「ええ」
タカシは頷く。
「回復するはずはないと思っていました。回復したなんて、そんな前例は耳に
したことがありませんでしたしね。もしかしたら、体質が変わったせいなのか
も知れない。主翼を失くしたし、時々、柾明がさすってくれていましたし」
兄がタカシの右膝をさする。
___どんなシチュエーションやねん、それ。
「お兄ちゃんも元気なん?」
「ええ」
「仲良うやっとるんやね?」
「仲良う?」
タカシには瞬一が本当に聞いていること、それ自体は推察出来なかったのかも
知れない。
「仲良う? 仲良くって、意味ですよね?」
アア。
___完璧オクテな、清純派やもんな、このヒトは。オレが汚れてしもうたん
か。いや。オレは大人になっただけ。十九歳やもんな。子供とちゃうわ。
「瞬一?」
「うん、そう。ケンカはしていないかって、聞いてんの」
「ケンカは、あんまりしていないですよ」
「あれっ。してんだ?」
「時々は」
「どーゆう理由でしてんの? 何が原因なん?」
「どーゆうって、柾明の口が上手いから」
「ヘッ?」
「何だか、いつも丸め込まれているような気がして。それでつい、何となく」
「へぇー。でも、そーゆーの、大抵、惚気なんとちゃう?」
「惚気?」
「そう。自分はこぉ〜んなに大事にされています、言う感じの。遠回しなんや
けど、その実、軽くラブラブ自慢なんやで、そーゆーのんは。大抵な」
「ふぅん」
タカシはしばし、本気で考えたようだ。
「そうです、ね。ええ。大事にはされている、と思います」
「あ〜あ。真顔で惚気られてしもうたわ」
「そんなこと」
「赤うなっとるで、タカシ」
「瞬一―」
 タカシは何か、言おうとした様子だったが、そこから先は瞬一の悲鳴にかき
消され、続けることは出来なかった。
「うぅわぁっ。痛ってぇー。何?」
慌てて、痛みを感じた場所、自分の左ふくらはぎを見る。そうする過程で不意
に瞬一の視界に現れた黒い猫がいた。
ニャ。
ふて腐れたような調子で一声鳴いて、猫はタカシへ擦り寄った。これ見よがし
な甘えたしぐさで。
「だから、気を付けてって言おうとしていたのに」
いつの間にやら忍び寄って来た“小舟”に嫌がらせされたものらしい。
「穴、開くかと思うたわ」
「大丈夫ですか? 消毒した方が良いのでは?」
「大丈夫。Gパンやったから」
猫の方は二人のやりとりなど、どこ吹く風で他所を向いている。
「敵わんな。小舟さん、相変わらずやね。前、冥界の蓋で会うた時はビリビリ
攻撃やったしな。よっぽどヤキモチ焼きなんやな」
「性格は変わらないものでしょうね。“入れ物”が変わっただけですからね」
「そうやね。でも。どうせやったら、舟よりは猫の方がましかな、自分の好き
に歩き回れるもんな」
「そうですね。魚とは何だか、よくもめていますけど」
「ああ。人間の方がもっと良かったってことか。そうやな。ちょい不満はある
わな。もめるわな。傍目にはレオ君対黒猫で、笑えるんやけどな」
「タカシ」
レオの姿を借りた魚がやって来た。
「オレ達は席を外すが、ちゃんと食事は取ってくれよ」
「わかりました。瞬一と一緒に食べます」
「頃合いを見て、戻る」
チラリ、と魚は一瞥をくれ、それに合わせるように黒猫も駆け出した。二人の
息は合っている。
サスガニ。
「それじゃ、瞬一。食事にしましょうか。夕飯、まだなんでしょう?」
「うん。そんじゃ、お呼ばれしようかな。茶菓子は持って来たんやけど」
「その籠は」
タカシは瞬一が持って来た籠に見覚えがあるらしい。
「前にブゥーさんに頂いたお店の、かな」
「そうやと思うよ。オレはこんなオシャレな高級店、知らへんから。あの人、
ブティックは知らんけど、ケーキ屋さんは詳しいから」
「そうですね。よく御存知ですよね。でも、最近、間食をやめたそうですから
ね。そろそろ新しいお店の情報は入らなくなるかも知れませんね」
「そうやろうな。自分が食べんと関心、持てへんよな」
 そんな他愛無い、どうでもよいような話をしながら、タカシの背中を支える
ようにして、キッチンへ向かう。さすがに整理の行き届いた、いかにも柾明が
使っていそうな出来の良いキッチンだ。
「うわぁっ、広いな、ここ」
「ストレス解消にいいんですって」
「ああ、料理な。オレもムシャクシャする時は思いっきり、焼きそば炒めたり
すんねん。どー見ても、一人分やあらへんやろって、量を」
「でも、瞬一は一人暮らしでしょ? だったら、困るんじゃ? 食は細い方だ
し」
「それがな、不思議と大丈夫やねん。呼んでもいーひんのに、どこかからか、
大学の先輩とか、友達が沸いて出て来て、食べ尽くしてくれんねん。あんた達
は蟻さんか、って勢いやで」
「随分、便利なお友達なんですね」
クスクスと笑うタカシもまた、楽しげだ。
「そうやろ? で、何作る? この頃、オレもなかなかやるんやで?」
「そうですね。瞬一の焼きそばも美味しそうなんですけれど」
「何? 予定あんの?」
「今日は柾明の作ったビーフシチューの日なんです」
パタンと扉を開け、庫内を見せてくれる。
「あのお鍋」
鮮度の高そうな食材が並ぶ中、どう見ても下ごしらえ済みと思しき密閉容器が
綺麗に列を成し、その中に鍋がある。
「もしかして、お兄ちゃん、タカシの御飯の支度して出掛けたん?」
「支度をして出掛けたと言うか。何かあって、帰れなかった時用にいつも作り
置きしておいてくれるので」
アノ顔デ? 
「そうやろうね。いっぱい、色々、入っとるもんね。お店みたいや」
どこまでもマメな男だ。感心半分、庫内を見回してみると、見覚えのある瓶が
目に入る。牛乳を煮詰めて作ると言う、ジャムだ。
___日本じゃ、入手困難やって、ブゥーさんが言うとったな、あれ。
ツマリ。
この上なく順当に、仲睦まじく二人は暮らしているのだろう。
「はぁ、敵わへんな、こりゃ」
「瞬一?」
「何でもない。つまんない独り言や。じゃ、お兄ちゃんの特製ビーフシチュー
を食べて帰ることにするわ」
「サラダは僕が作りますね。簡単なグリーンサラダなんですけど、盛り付けは
上手だって」
「お兄ちゃんが褒めてくれた、と」
「瞬一。もしかして、からかってます?」
「ちゃうよ。また小舟さんにかじられてまうもん。そんなん、勘弁や。あっ、
その鍋、オレが運ぶな」
重そうな鍋を取り出し、コンロへと向かう。
「さ、美味しいサラダ、作ってや。オレ、腹ペコやねん」
「はい」
 久しぶりだというのに、向き合って食卓に着くと、普段通りのような心地が
する。何も起こらず、何も変わっていないのではないか? ひょっこりとコウ
やレンが、佐原が帰って来る。そんな錯覚に囚われそうにもなる。
___勘違い、なんやけどな。
しかし、この心地良さは懐かしく、その上、以後、そう簡単にもう一度、もう
一度と、繰り返し、味わえるものでもないことはわかっている。それならば。
一時だけ、兄の存在を忘れ、束の間の世間話に興じよう、そう腹を括ることに
した。
「弟さん、可愛いんでしょ?」
「うん。何かな」
「ん?」
「最初。パッと見て、ああ、この子、隆やって、思うたん。直感したゆーんか
な。そしたらな、そん時、偶然なんかも知れんけど、ニッコォって笑うてな。
もしかしたら、気のせいやのうて、本当に隆の生まれ変わりなんかなって思う
た。前にコウ君達がもうじき、隆は生まれ変わる。もう順番待ちの列に並んで
て、待っとるってゆーとったし。あ、そうや。コウ君達には会うとるん?」
「会っていません。会えない、でしょう? 瞬一も」
寂しげな様子にチクリ、と胸が痛んだ。
「あんな、直接いうわけやないんやけど、ちょっと話は聞いとるんや」
察し良くタカシは顔を上げた。
「庶務の子には会えたのですか?」
「うん。オレが心配しているだろうって、一人が色々、知らせに来てくれたん
や。コウ君達は復帰して、今はヨーロッパにおるらしい。北ッ側の親玉さんは
表面的には何も変わってへんって」
「そう。コウ達はヨーロッパなんですか」
「うん。なかなか会えへんと、寂しいけどな。偶然、会う可能性ないもんな、
ヨーロッパじゃ」
「ええ。でも、レンにはその方が良いのかも知れません」
「レン君?」
「あの子、ずっと、古い時計を捜しているそうですから」
「古い時計?」
ふと、レンが腕にはめていた若者らしい、値こそ高くないが、しゃれた腕時計
を思い出す。瞬一が思い浮かべる古い時計と今時のオシャレをしたレンの姿が
今一つ、重ならなかった。瞬一の心中を察したのだろう。そっとタカシが口を
開く。
「昔、遭難して、失くした大切な金時計を、レンは捜しているんです」
天使が一度は体験すると言う、人間界での研修。人間として生きていた当時の
レンは家族と共に乗っていた客船が難破し、家族と離れ離れになりながらも、
他の乗客と小島に流れ着くことは出来た。だが、そこから先、生き延びること
は叶わなかった。
喰ワレテ、シモウタンヤ。
「あの時、仮のお父様が託してくれた金時計に未練があるらしくて」
「気持ちはわかるけど。でも。ちょっと難しいやろうな」
「ええ」
 タカシが目を伏せた。その表情が痛ましい。その切なさを振り切るように、
殊更、明るく次の話題を口にする。
「そう言えば、佐原君はどないしとるんやろう? レン君が仕事に戻ったら、
困るんやないの? 誰か、代わりに世話してくれるんやろうか?」
「ああ。恐らくもう、一人で十分、過せるからだと思いますよ」
「ええっ、だって、こないだって言うか、最後に会うた時、赤ん坊やったやん
? 一人じゃ御飯も食べられへんよ」
「天使ですからね。人間とは違います。天使は魂の時代は長いけれど、身体を
頂いた後は早いんですよ。今頃は幼稚園児くらいはあるはずです」
「へぇっ。そりゃあ、さぞかし落ち着きのない、騒がしい子やろうね」
「瞬一ったら」
クスクスと笑うタカシも否定するつもりはないようだ。実際、タカシは幼年期
の佐原を知っている。
___やっぱり、騒がしい子やったんやな。
「それじゃ、来年はどれくらいの大きさになるん?」
「高校生くらい、かな」
「そ、そんなに早いの? えっ、何で?」
「だって、子供は働けないじゃないですか? だったら、早く大きくなった方
が便利でしょう」
「ああ、そう。そうやね、うん」
天界も結構、厳しい社会であり、人間界のようにいつまでも、青春などと言う
甘美な季節を楽しませてはくれないものらしい。
___今、ちょっと人間で良かった、思うたもん。
・・・
 食後、まったりとお茶を飲み、焼き菓子を食べていると、頃合いを見計って
いたと言う魚に突然、帰宅を促されることとなった。
「おい。紅茶飲み干した、カップをテーブルに置いた、現れた、『そろそろ、
帰れ』って、一体、どーゆう了見やねん?」
ぼやきつつも抗うことはせず、素直に席を立つ。足元には既に小舟が忌々しげ
な唸り声を上げつつ、スタンバイ済みだ。抵抗は流血を招くだけだろう。
___オレだけ、ケガすんねんな。
「瞬一。また近い内に遊びに来て下さいね」
小舟を抱え上げ、タカシは見送りのためについて来る気のようだ。
「ここでええよ。階段、危ないよ、あれ」

 

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