ゆっくりと水面を渡って来る、もう一つの“小舟”。それはもやの中、交差
し、擦れ違い、入れ替わりながら混在すると言う時の中を横切って、近付いて
来る。白泥の水を切り、ゆっくりと、しかし、確実に自分の“主”とその白い
恋人を乗せて、接近しつつある小舟。もし、このままのコースを辿れば、間も
なく新旧、二つの小舟は擦れ違うことになる。
キット擦レ違ウ。
そう思う。どちらの小舟も慣れた、主に命じられたコースをなぞるように思う
からだ。
あれは、“本物”だよ。見たいと望む欲求が垣間見せる幻なんぞではない。
本物の“その時”、そこに存在した二人そのものなのだ。遠く、過去の彼方へ
去って行った、“ある日の”二人なのだ
「本物なんやね」
瞬一が力なく呟くと、魚は頷いてくれた。
そう。触れることは出来ないが、な
小舟はゆるゆると、それでも、やはり、確実に近付いて来る。
「向こう、そろそろ、こっちに気付かへんかな?」
結界を張っているからな。中にいる天使にはまるっきりわからないだろう。
御主人様の方には“わかる”のかも知れないが。気付いたとしても、それきり
だろう
「デート中やから?」
そうかもな
 未だ詳細は見えない。だが、暗がりの中、繭のような形をした光が近寄って
来る様子ははっきりと見えている。どうやら天使の翼が放つ光が魔物の結界に
閉じ込められて、そんな形を作っているらしい。
「綺麗やね」
そうだな
漏れた光が静かな水面に映えて、美しい。しかし、ほとんどの光は結界の中で
収められているようで、先刻のように水面が様相を変える兆しはなかった。
モウ、アンナメニハ遭イタクナイシ、遭ワセタクモナイ。
心配はいらない。“あれ”は土台、過去だ。それに天使の力も、あの通り、
閉じ込められている。“奴ら”は反応出来ない。当然、噴き出ては来ないさ
「そうなん? よかった」
安堵する瞬一に口元を緩め、どうやら魚は笑って見せたようだ。そして、彼は
水面へと視線を移し、呟いた。
随分、懐かしい奴らがいる
瞬一も、魚の視線を追ってみる。すると赤い魚、“彼”が泳いで来たかと思う
と、すぐに現在の、この小舟を追い抜いて行った。そして、もう二匹がそれを
追い掛けて来たのだ。
「あっ」
彼ら、二匹は先頭を切って行った“魚”ほどは赤くなく、小ぶりで、いかにも
弟分といった風情だった。
モシカシテ。
アノ二匹?
「お魚さんにはお仲間がおったんや。そや、さっき、タカシが言うとったな。
淋しかったやろって」
そうでもないさ。小舟がいるし、何なら、その内、また分裂すればいい
「、、、。分裂?」
面妖な単語に瞬一は首を捻る。
「分裂って?」
オレは分裂して、二人にも、三人にもなれる。しこたま“喰えば”、な
「細胞分裂みたい、な?」
経緯は知らんが、結果はそんなものだ
魚の返事はあっさりしたものだった。
___そんな。アメーバとか、そんなんじゃあるまいし。
相当、器用ナ生キ物ヤデ。
むろん、オレには御主人様のような完璧な“摸造”は出来ない。当然、奴ら
はオレよりは質が落ちる。さして丈夫でもないから、あっさり死んじまった
「そうなんや。ちなみに、な?」
何だ?
「何を食ったら、そんな器用なことが出来んの?」
「はっ?」
おまえも見ただろう、“悪しき魂”を。あれがオレのエサだ。つまり、この
天使がいれば、食いっ外れない。例え、御主人様がいても、天使に惹かれて、
いつもよりは上に上がって来るからな楽に食える
「確かに。あれは“食い放題”やったな」
魚は頷いた。
もっとも、さっきのような“好機”にはめったに恵まれない。普段は質素な
ものだ。だから、魚のまま、分裂もしないで過ごしている。消耗するからな
「ふぅん」
上の空で返事をし、瞬一はそこまで近付いて来た“小舟”に目を凝らした。
___中、見えるんかな?
今でも十分、若く、可愛らしい天使が実際、若かった頃。
ドンナ感ジダッタンダロ? 
ヤッパリ、表情ガ違ウノカナ? 
幸セデイッパイノタカシヲ見テミタイ。
ソレニ、モシ、魔物サンノ姿モ見ラレルナラ、一目見テオキタイヤン?
ライバルノ顔クライ___。 
なぁ、おまえ
呼ばれて、慌てて、魚へと視線を戻す。
「ん?」
一つ、聞きたいことがあるのだが
「何?」
オレは天使ではないし、“立場”もある。こいつが御主人様に騙されたとは
思わない
「うん、そやね。普通、そうやと思うよ」
こいつは望んで、ここまで来ていた
考えてみて、その上で瞬一も頷いた。天使は自分を助けてくれた魔物を、その
性格を知った上で慕っていた。それは瞬一も本人の口から聞いて知っている。
騙サレルヨウナアホデモナイシ。
「フィフティ・フィフティやって、オレかて、思うよ」
そうだ。こいつは決して、惨めな被害者なんぞではない。自らの意志でこの
沼を訪れていたのだからな。そして同様に、大罰を与えられなければならない
ような罪も犯してはいないのだ。そうだ。オレ達は誰よりもよく知っている。
オレと小舟はいつも間近で二人の様子を見ていた。天使共より、ずっと二人を
見知っている。二人はああやって、ただのんびりと一緒にいた、それだけの話
なのだ。それの一体、どこが罪なのだ?
一体、どこが罪なのだ?
 魚の呟いた一言が声のない悲鳴のように胸に響いて、しかし、すぐにどこか
へと消えて行った。輝きを内側に閉じ込めた“繭”がすぐそこまで迫っていた
のだ。
アノ中ハ暖カソウヤ。
まるで降りしきる冷たい雨の中、うっかり遠くに覗いてしまったファミレスの
窓のように、その明かりは皓々と闇に浮かんで、いかにも幸せそうに見える。
誰も彼もが一人ではなく、語り合い、笑い合い、何かを食べながら一時を共有
する、あの空間のようだ。
___ファミレス、寂しい時は覗きたかないねん。オレだけが一人、みたいな
気ぃするから。
寂シイ思イ。
オレカテ、覚エテル。置イテ逝カレルンハ、本当ニ辛イ。
瞬一は幼馴染みに、祖母に置いて逝かれた。それは人外の生き物達にとっては
ごく最近の出来事なのかも知れない。
___人生なんて、天使や、何かから見れば、すっごく短いらしいから、あっ
と言う間に終わる苦痛であって、大したことやないのかも知れへんな。
ソヤッタラ。
 天使の場合はどうなのだろう? タカシが魔物を失ったのはずっと、ずっと
昔のこと。そして、彼の寿命はまだ当分、尽きないものらしい。
___そやったら、、、。
息が詰まる。
アノ寂シサガ、置イテ逝カレタ哀シミガ延々、延々、続クナンテ。
自分の思い出の一片を取り出し、思い浮かべただけで、涙が溢れて来た。
「よく見えへんわ」
“繭”から視線を外し、瞬一は背後を通り過ぎて行く小舟を背中で見送った。
“繭”の中からこぼれて、瞬一の耳にまで届いた楽しげな笑い声、それだけで
もう、十分だと思う。
___若いあの二人はもう、いないんや。今更、オレが何を見たって、知った
って、意味はない。オレは今、自分が知っているこのタカシと、これから先の
タカシのことだけを考える。魔物の姿を知って、無駄な嫉妬に駆られる暇も、
余裕もないんやから。
さて、そろそろ、向こう岸に寄せてくれるんだろう? 小舟さん

 

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