小舟は“返事”はしなかった。だが、ぐいと加速されたことで、乗客である
瞬一にも、小舟が承知したのだとわかる。つまり、小舟は時間稼ぎを止めて、
いよいよ、沼を抜け出す気になったのだ。
デモ、ソレジャ。
すぐに着く。岸まで行けば、あとはあっさりしたものだ。心配するな
魚は相変わらず、赤い手で天使の後頭部を撫で、指で髪を梳いてやりながら、
そう言った。
アンタダッテ、未練アルンヤン? 
別れ難い気持ちは言葉で訴えなくとも、天使を抱き締めた彼の赤い身体全体に
満ち、溢れて、瞬一まで切なくなる程なのだ。
小舟サンカテ、同ジナンヤロ? 
本当ハ、ズット一緒ニイタインヤロ?
ソレナノニ、、、。
「このまま、お別れするつもりなん?」
当分、目覚めそうもない。やむを得んだろう
「でも、名残惜しいんやろ? 本当はこのまま、タカシには“ここ”におって
欲しいんやないの? だって、タカシがおらんとここ、また寂しくなるやろ?
そんなん、嫌なんやろ?」
そうだな
魚は小さく頷いた。
確かに、こいつがいれば、退屈はしないだろうな。オレはエサにも困らない
し。何より、小舟の不服を聞かずに済むし、な
「不服言うんや、小舟さんは」
まぁ、な。大概、眠っているくせに、たまに起きている間は昔を懐かしむ。
延々、愚痴るから、傍迷惑だ。たぶん、あの時、引き留めておけば良かったと
当分、そうだな、おまえが死んで、また“戻って来る”頃までは言い続けるの
だろう
「わかっとるのに、何で、お魚さんはタカシを引き留めんの?」
主人に譲られた紫色の目がじっと瞬一を見る。
おまえは一体、何を望んでいるのだ? 人間界に帰りたいのだろ? こいつ
を連れて
「そやけど。でも、オレやったら、タカシと別れるなんて、そんなこと、絶対
に嫌や。そやったら、二人かて、引き留めたいんやないかと思って」
人間らしい発想だな
「人間らしい?」
そう。もっとも、オレには魔物と人間の違いがわからないが
「全然、違うやん?」
おまえは魔物を見たことがないだろう?
「でも、魔物は何て言うか、お魚さん達みたいな恰好で、おまけに長生きなん
やろ? 葉っぱからお魚さんを作ったりとか出来るんやろ? そんなん、人間
には出来ひんし」
ま、御主人様は特別だったからな
「特別?」
ああ。上から数えた方が早い順位だった
「偉いん?」
定義はいろいろとあるのだろうが
魚はぼそりと呟き、気を取り直したように続ける。
どのみち、オレ達は引き留めない。こんな所にいて、こいつが幸せなはずが
ないから、な。食べる物くらいなら、ここら辺にいる連中で手分けをすれば、
どうにでもなるだろう。だが、命さえ繋げば、生きてさえいれば、それで幸せ
というわけにはいかないのだろう? 天使は花や歌や菓子が好きな、甘ったれ
だからな
「そんなん、お魚さんや小舟さんかて同じやん? 寂しいのは嫌やろ?」
確かにいい気はしない。だが、元々、オレ達は喜びも、楽しみも、おまえ達
ほど貪欲には求めない。だから、こんなものだと割り切ることが出来る
「でも」
オレ達の心配はしなくていい
「でも」
大体、おまえは、そんな“お偉い”立場じゃないだろう?
低く、しかし、一喝されて、瞬一は口を噤まざるを得なかった。出過ぎた心配
には違いない。自力では元いた世界に帰ることも出来ない、不甲斐ない自分。
それをせっかく帰してくれると言う魚と、それを手伝ってくれる小舟に対して
するには確かにおこがましい、要らぬ心配だった。
モウ、何モ言エヘン。

 めざす岸はすぐそこに迫っている。きっと、天使が言っていたように、魚が
言うように、岸に上がりさえすれば、この奇妙な世界から、ごく普通の、あの
人間界へと戻る道が開かれるのだろう。
オレハ、家ヘ帰レルンダ。
だが、それはたぶん、この世界、この小舟、この赤い魚との決定的な別れでも
ある。気詰まりな空気の行方を心配している時間など、もう残されてはいない
のだ。
「あのな」
何だ?
「さっき、オレに聞きたいことがあるって、言わへんかった?」
答えはもう、聞いた
「聞いた、って?」
こいつを大事にしてくれるんだろう?
「オレを、信じてくれるん?」
こいつの幸せを考えてくれるのなら、誰でも、何でも構わない。オレ達には
何もしてやれないのだから
イイヒトナンダ。
さて、と
 対岸に着くなり、魚は天使を抱き抱えたまま、身軽に小舟から飛び降りた。
運動神経は抜群のようだ。
おまえも、ちゃんとお別れしておきな
魚は小舟の先に、自分が横抱きにした天使の顔をそっと近付けてやる。だが、
青ざめた天使は眠っていると言うよりはむしろ、気を失っていると言うような
有り様で、とても別れの挨拶など交わせそうになかった。その様子を見、瞬一
はいたたまれない気分になっていた。これがこの二人、魚と小舟にとっての、
タカシと会う最後の機会であり、もう二度と写真ですら、顔を見ることはない
のかも知れない。そう思うと、切ない思いに駆り立てられるのだ。生気のない
こんな寝顔が大切なワンショットとして、気の遠くなるような長い年月、二人
の記憶に留まるのかと思うと、叫び出したかった。
___どうせやったら、せめて、いつもの、あのニコニコして可愛い、タカシ
らしい笑顔を見て、それをずっと、ずっと覚えていて欲しいやんか。
「ね、タカシ、起こせへん? ちゃんと目を見て、お別れ言いたいんと違う?
タカシかて、お魚さんと小舟さんに挨拶したいんと違う?」
欲張っても仕方がないだろう? こいつの後ろ髪を引くだけだ。特別、気の
優しい天使なんだ。オレ達、二人がかりで未練ありげに見送られでもしたら、
こいつが行き辛くなる。それこそ、不憫ではないのか?
「優しいんやね、二人は」
気が長いだけだ。オレも小舟も、こいつ、天使も長生きだ。生きていれば、
どこかでもう一回、会う機会が回って来るかも知れない。そう思えばいい話
なのだ。おまえが気に病むことではない。行くぞ。ちゃんとオレが歩いた所を
辿って、きっちり踏んで来いよ。この道は時々、“揺らぐ”からな
「揺らぐ?」
知らなくていいことだ。オレが歩いた箇所を踏んで歩けば、問題はない
どうやらこれ以上、問えば、身の毛もよだつ恐ろしい答えが返されるらしい。
瞬一は追求を諦め、ちらと沼の縁、ギリギリの所で自分達を見送っている小舟
を見やった。
チャント出来ルダケノコトハスルカラネ。
___幸せにする、なんて、そんなおおぼらは吹けないけど。だけど、毎日、
ちょっとしたことでも、つまんないことでも、それでも毎日、一回でも、二回
でも、タカシが笑えるようにオレ、頑張るから、見守っていて。
ちゃんとやれよ。
置いて行くぞ
「今、行く」

 足場の悪い道を歩く。前を行く魚の足取りはしっかりとしていて、そのくせ
時折、何かを、瞬一には見えない何かを避けるように道を外し、すぐにまた、
元通りと思しき道へ戻り、そのまま歩いて行く。
「なぁ」
何だ?
「さっきの所、そのまま行っとったら、どうなるん?」
さぁ、な。案外、おまえが住んでいる世界辺り、かもな
「人間界に行くん?」
天界かも知れないし、魔界かも知れないし、そこら辺で様子を窺っている、
あの連中の生まれた世界かも知れない。オレにはわからない
「でも、どこかには行くんやね」
そうらしいな
「未だわからんことがいっぱいあるんやね」
どこだって、同じだろ? 人間は地底も海底も何も知らないくせに、宇宙に
行きたがる。そんなものだ
「そやね。皆、同じやね」
魚はピタリと、そこで足を止めた。彼の細長い身体越しに先を見る。向こう、
暗がりには未だゴールらしき、何かは見えなかった。
「何で、止まるん?」
オレはここまでだ。ここから先は足元の心配はいらない。ただ真っ直ぐに
行けばいい。つまり、おまえ一人でいいのだ
そう言って、くるりとこちらを向いた彼、魚の変化に、瞬一は息を呑んだ。
___えっ? 
あるべき物が一つ、そこにはなく、代わりにぽかりと、黒い穴が空いている。
___何で? だって、別に交通事故に遭ったわけやないし、普通にスタスタ
歩いとったし。えっ、何でやねん?
彼の表情にも何ら、変化はない。
痛ミモナインヤ。
ダッタラ、、、。
落としたんじゃない。足元を探すなよ、オレの方が気恥ずかしいだろ?

 

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