「ガルルゥッ」
ガルルゥッ? 
ギョッとして見やると、白石がニタリ、と笑って見せた。
「な、何やねん?」
「今さ、そんな唸り声が聞こえたよーな気がしたんだけど。空耳、かなぁ?」
「空耳、なんやないの?」
「ふぅ〜ん。そぉなんだ? へぇ〜、空耳かぁ。へぇー。空耳ねぇ。ふぅん」
ウルサイ。
いかにも意味ありげに嫌な笑みを作って見せる白石に言ってやりたいことなら
山ほどもある。だが、あいにく瞬一は生来、命知らずな方ではない。
オレハ慎重派ヤデ? 
大昔。
蟻の行列に夢中になり、熱中症だか、日射病だかで病院に担ぎ込まれたと言う
お粗末且つ、恥ずかしい過去はあるものの、祖母に危険だからと言われた箇所
には絶対に踏み込まなかったし、高い所にも、水辺にも特段の関心を持たず、
今日まで大したケガもしないで、無事、生き延びて来た。隆の二の舞を恐れる
あまり、臆病になっていただけなのかも知れないが、それでも、確かに自分は
無謀な真似をする性質ではない。
ダケド。
デモ。
タカシのためなら。
___オレかて、やる。やったる。火の中はちょっと無理かも知れへんけど、
でも、水の中くらいなら、オレは行く。行ったるで! 
「何かさ、一人、決起集会みたいな顔して満足している不審者がいるんだけど
? 気味悪くない?」
___不審者? 
しばし、考える。
「お、オレのことかい?」
「明らかにあんたでしょうが。おかしいもん、挙動が」
「何でやねん?」
「だってさぁ」
口を開きかけて、白石は前方へチラと視線を戻す。住宅地の細い道路に二台、
車を連ね、そういつまでも口論を続けるわけにはいかないようだ。タカシだけ
を降ろして兄は再び、どこかへ向かうつもりならしい。出て来た兄はまた車に
乗り込もうとしているのだ。
「お兄ちゃん、どこ、行くんやろ?」
「オレの家なんじゃない? だって、水色のちっちぇ車が微妙な所に停まって
いるじゃん? あれ、妨害工作なの? 普通、二台入るはずのスペースに何で
あんなおかしな恰好で停まっているだか。あんたが家にいる時に聞いておけば
良かったんだけど、朝は気忙しかったし、正直、思い付かなかったんだよね。
でも、もしかして、あの車の鍵、家にないんじゃない? 軽く捜してみたけど
見つからないし、タカシは知らないって言うし、入れ替えようがなかったんだ
よね。当然、鍵屋さんを呼ぶ時間もなかったし」
「―」
言葉に詰まる。確かにもう一台、入れようと試みた場合、嫌がらせかと一瞬、
疑うような絶妙の位置にコウの水色の愛車は停められている。御丁寧にもやや
斜めのラインをキープして、だ。
___塞いどる、よな、あれは。
「たぶん、悪気はなかったんやと思うけど」
そう、単に運転が下手なのだ。
___だって、コウ君、毎回、かなり険しい顔して、車庫入れしよるもんな。
あれより下手なレン君も凄いけど。
免許のない瞬一に鍵を渡す意義を思い付かなかったのだろう。二人は鍵のこと
など、一言も残さずに天界に帰った。
___慌しかったし、仕方ないんやけどな。
そうこうする内に兄の車が出るようだ。
「ヤバイぞ。もたもたしていられないぞ。まー君、結構、せっかちさんだから
な。さ、瞬一君。後ろの荷物、一緒に降ろして。オレもこの車、入れて戻って
来なきゃ。おっ、後ろ、車、来てんじゃん。急いで!」
「わかった」
白石と二人、飛び出すようにして車を降り、ダンボール箱やビニールの袋、紙
包みと手当たり次第、運び出して、一旦、門扉の向こうへ置くだけ置く。
「すみません」
ペコリと後続の車にお辞儀をし、白石が車に戻るのを見て、瞬一も同じように
頭を下げた。白石の車ともう一台、後続車が連なって通り過ぎるのを見送り、
瞬一は手近な、やけに生臭いような気がする段ボール箱を抱え上げた。幸い、
重くはないようだ。
「お帰りなさい、瞬一」
コツ、コツと聞き慣れない音を立てながら、タカシが近寄って来た。
「ただいま。元気やったん?」
「ええ。もう、すっかり元気ですよ」
やけに明るく見える笑顔が目に眩しい。
 いつでも平穏で、可愛らしいヒトだった。しかし、今夜ばかりはキラキラと
輝いて、一層、幸せそうな笑顔に見える。花が咲くようなという表現を知って
いても、実際、そんな煌きを見る機会は少ないものだ。そして、今、この笑顔
がそれなのだと気付く。決して、いつもの穏やかなだけの笑みではなく。
___オレ達、間違っとったんかな、やっぱり。
内心、実はずっと、やましい気持ちがあったのかも知れない。瞬一は今、この
笑顔といつものそれとの違いに気付き、驚くと同時に安堵もしているのだ。
___そうだよな。タカシだって、自分一人で好きに動けた方が幸せ、なんだ
よな。気だって、楽なんだよな。
あちこち好きに出歩いて欲しくないと言う、コウやレン、そして瞬一の願いは
所詮、エゴに過ぎなかったのかも知れない。ほんの一工夫でタカシの活動範囲
は飛躍的に広がるし、同時に精神的にもぐっと高揚し、楽しい心地を味わえる
ものなのかも知れなかった。
___結果オーライなのかも。
事情を知らない兄や白石に出会わなかったら、いつまで経ってもタカシの状態
が変わることはなかったはずなのだ。
___タカシが幸せなら、しゃーないよな。
「大荷物でしょう? 僕も持ってあげますね」
「いいよ。大丈夫」
「じゃあ、片手でも持てそうな、そちらの袋だけでも」
「ああ、それなら」
「お帰りなさいませ」
見たことがあるような、ないような。きっちりとスーツを着込んだその初老の
男性は家の中から出て来た。
「お寒うございますよ。さ、早く中へ」
そう言いながら、彼は瞬一の手から荷物を取ろうとする。
___誰だろ? 
思わず、段ボール箱を抱えた手に力を入れる。すると、彼は笑ったようだ。
「坊ちゃまは相変わらず、ですね」
「坊ちゃま?」
最近、あまり聞かない呼ばれようだ。そう言えば。ずっと以前にはよく、そう
呼ばれていたような気がする。
___じゃ、やっぱり、知っている人なんだ。
「えっ、と」
「構いませんよ。随分、お久しぶりですし、坊ちゃまがお小さい時のお話です
からね」
彼は奥から続いて出て来た、もう少し若い男を見やった。
「運んで差し上げろ」
「はい」
キビキビと動く男を今更、止めることは出来ないようだ。促されるまま、瞬一
は大人しく抱えていた箱を手渡した。
「あっ、若。お帰りなさいませ」
誰が帰って来たのかと振り返る。すると、白石と兄の二人が戻って来たところ
だった。歩み寄る初老の男性は兄には特に深く頭を下げた。
アア。
___お兄ちゃんの“実家”の人だ。
兄は足を止めてしまい、白石一人がこちらへと歩み寄って来た。
「さすが、まー君。抜かりはないね。ぐっと明るくなった。これなら、一安心
ぽくない?」
白石の言っていることがわからないまま、何の気なく門扉の辺りで例の男性と
立ち話をする兄を見る。
アレ? 
今日はやけに良く見えている。
___いつもは暗くて、良く見えないのに。
「ニブチン。今頃、気が付いたんだ?」
「今頃って?」
「これだけ家の周りが明るくなっているのに今頃、あれぇって、不思議そうな
顔してんだもん。相当、鈍いね、この子は。ねぇ、タカシ」
「でも、良い子ですよ、瞬一は」
「鈍いんだけどねぇ」
「そんなん、何度も言わんかて、ええやん?」
頬を膨らませながら、ようやく庭用の照明が違う物に取り替えられているのに
気付いた。
「家の中も、ちょっと防犯用に手を入れたんだよ。だから、わざわざタカシも
連れて出掛けたの。だって、工事中ってうるさいじゃん? もう一つ、オマケ
もあったし」
「オマケ?」
「いいから。さ、入るよ」
促され、タカシを伴って、家に入る。
「今年はえらく寒いよね」
「そうなんですか? いつもは寒くないんですか?」
「うん。もうちょっとだけ、まし。ね、瞬一君」
「うん。そうだね。タカシ、ここ、座って」
「ありがとう、瞬一」
タカシがブーツを脱ぐのを手伝っている間に兄が追い付いて来た。
「話は済んだの?」
「ああ。明日からは仕事に専心出来そうだ」
「そりゃ、良かった」
「さて、飯の支度でもするかな」
腕まくりをしながら兄がキッチンへ進んで行く。
「おっ。楽しみv まー君はおばちゃま譲りの凄腕の持ち主だからね。よっ、
板さん! オレも、まな板の上の鯉になりたいなv よっ、恋違い」
「うっさいな、この豚は。おまえも、ついでにおろすぞ?」
「え〜っ、三枚に?」
相変わらずの悪態を吐き合いながら、振り向いた兄はタカシに目を留めたよう
だ。
「何だ、おまえ。未だ被っていたのか」
兄に贈られたと言う帽子をタカシは被ったままだった。
「あぁ。暖かかったし、取るタイミングがわからなくて。天界では帽子って、
見たこともなかったので」
そう言えば、オシャレ好きなコウとレンも不思議と帽子は被っていなかった。
たまにキャップを被ることはあったが、その時は二人して、鏡を見ては笑って
いたものだ。
___あれ、見慣れない恰好見て、うけていたんだ。
「そういう帽子はね、家に帰ったら取るものなんだよ」
したり顔で教えてやる白石に素直に頷いて、タカシは帽子を取った。柔らかい
赤い髪がペタンコになっていて、それはそれなりに可愛らしい。思わず口元を
緩めた瞬一と白石に気付き、怪訝そうなタカシに指摘してやる間はなかった。
ふいに伸びて来た右手がごく当たり前にタカシの髪を梳き、整えてやったから
だ。
「これで元通りだろ?」
「ありがとう、柾明」
ニッコリと笑った顔はこれまでのどの笑顔より、輝いて見えた。

 

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