靴を履く。踵にくいっと履き慣れたスニーカーをはめながら、チラと横目で
見やった先にある物。それは最近、すっかり見慣れたタカシの杖だ。一瞥した
だけでは単なる、軽やかな象牙色の杖だが、しかし、手に取ってよくよく目を
凝らしてみると、しっかりと彩色された波間の絵が描かれている、と気付く。
___こんな細い線、描くような筆ってあるんだな。
うっかり、そんなことを考え、すぐに思い直した。金の絵の具と銀の絵の具。
それを波として描いたのは筆先の細さではなく、ひとえに作者の技量だ。同じ
筆と絵の具を与えられても、素人の瞬一にこの細く、たおやかな線を、それも
波として引くことは出来ないのだ。
サスガ画家。
兄の本気の絵は未だ、見たことがない。だが、戯れに描いたと言うこの絵すら
やはり、只者ではなかった。数日前のことになるが、その兄が自分がタカシに
買い与えた杖を手に取り、呟いたのだ。
『やっぱり、このまんまじゃ、味気ないな。真冬にこんなんじゃ、気も滅入る
だろう』
そんな独り言から始まったことだった。外出用とした杖にはこの通り、静かに
広がって行く波が描かれ、室内用の杖には不思議な動物園が描かれた。青空の
下、ややデフォルメされた動物達が三々五々、連れ立って公園を歩き、楽しげ
に遊ぶ図。細密に線を引き、カラフルに色塗りされたそれは細長い杖の上にも
かかわらず、まるで良く出来た絵本のようだった。
___笑い声が聞こえて来そうな。
兄の強面のルックスからは想像も出来ないほどポップで、可愛らしい仕上がり
で、防水加工を施し、壁に立て掛けられていたそれを見つけたタカシが思わず
目を見開き、次いで白い顔いっぱいに緩やかに笑みを広げるほど、良く出来て
いた。
___子供だったら嬉しくて、三日は抱いて寝るだろうなって感じの。
『可愛い。凄く綺麗。ありがとう、マサアキ』
『暖かくなったら、本物を見に行けばいい』
『本物?』
『ああ。多少、生臭い毛むくじゃら共が雁首揃えて、おまえを待っているぜ』
『おーっ、まー君が超遠回しにデートに誘っている! 有り得ない光景に遭遇
しちゃったよ。通常なら速攻、頭っから“丸かじり”なのにぃ。やっぱり相手
が天使じゃ、さしものまー君も調子、狂っちゃうわけ?』
ソファーに陣取った白石がからかって来た。相変わらず、命知らずな男だ。
『何でも“そっち”に持って行くおまえの力技こそ、有り得ない。そろそろ、
欲求不満なんじゃないのか? この白豚』
『豚豚、うるさいな。そぉんなにブゥーのことが可愛いの? そうだね。まー
君は大好きだもんね、可愛い子豚さんvがねぇ』
『へいへい。終いに撲殺してやるよ、勘違い野郎が』
笑顔で凄いことを言っている。おののく瞬一を尻目に当の白石は嬉しそうだ。
『えへへっ。まー君に告られちゃった。あ、じゃ、タカシ。暖かくなったら、
動物園に行こうよ、四人で。瞬一の合格祝いを兼ねてさ』
エッ。
ダイニングのテーブルに着き、聞き耳を立てながらも、ボンヤリと眺めていた
夕刊を放り捨てた。聞き捨てならない展開に黙ってはいられない。
『ちょっと待って。合格祝いに上野動物園なん? それって何か、お安いんや
ないの? 毎日毎日、地道ィに頑張り続けた総量に対する御褒美が上野動物園
なん? そりゃあ、久しぶりにパンダ、見たってええけど』
そう言えば、随分、昔に行ったきりだ。杖があるのなら、タカシも気兼ねなく
好きな方向に歩くことが出来る。もしかしたら、天使であるタカシには瞬一に
とっては見慣れた象やライオンも目新しい生き物なのかも知れない。タカシが
楽しめるなら、それでも良いか。そんな計算をし始めた鼻先にぐい、と白石の
指が押し付けられた。
『ブヒィッ』
そう言って、白石は笑い出す。
『こーやって鼻を潰したら、さすがの瞬一も豚チック顔になるんだ。こりゃ、
驚いた! 新発見ですなぁ。ねぇ、まー君』
『何すんねん?』
『この早とちりめ。オレ、上野だなんて、一言も言っていないよ? そんなに
行きたけりゃ、瞬一一人で御自由に。オレ達大人組は遠出するから、お留守番
をよろしくね』
『えっ。じゃ、あの、あの。北海道の?』
『ヤダ』
白石はさも嫌そうに顔を歪める。
『北海道って、寒いじゃん? お金払って、寒い所に行く意味がわからない』
『じゃ、どこやねん?』
『内緒v』
『ケチ、いや、ドケチ!』
『何とでも言ってくれたまえ。どうせ、新学期が始まったら、あんた、学業に
勤しまなきゃならないもんね。新入学は結構、準備に手間取るから、お気楽に
旅行出来る期間って、短いよね。じゃ、やっぱり、お留守番だな、瞬一は』
『何でやねん? オレのお祝いって、さっき、言うたやん?』
『ププッ。ムキになってる。やっぱり、皆と一緒に動物園、行きたいんだ? 
お弁当とか、まさかピクニックシートとか、持って? ダサッ』
___ダサって、、、。豚に言われとうないわ。
何より、屈辱に赤面し、プルプルと震えている自分が情けない。特段、白石に
悪意は感じられない。つまり、いいようにからかわれているだけなのだ。
___意地悪な豚なんか、可愛くない。
ケタケタと笑いながら白石はお茶を淹れるタカシを見やった。
『ねぇ、タカシ。タカシって、パスポート、持っているの?』
___パスポート? 
何の話だろう? 瞬一が首を傾げる間にタカシはあっさりと、頷いた。
『ええ、一応』
持ッテンダ? 
そう言えば、タカシはカードを何枚か、持っていた。“庶務”の仕事にぬかり
はないらしい。
『じゃあ、問題ないね』
『何でパスポートなん? 動物園の話してへんかった? 話、飛び過ぎと違う
ん?』
『瞬一には関係ない話なの。第一、まず、合格しないことにはお祝い出来ない
しぃ』
『受かりますぅ』
『もしかして。人間用から犬猫用に変更して、偏差値的には十くらい落とした
から超楽勝! 受かったも同然じゃん?とか甘いこと、考えてんじゃないよね
?』
『考えてません』
オレハ超努力家ヤデ?
頑固で不器用な自分がそうそう上手く立ち回れるはずもない。
『はい、マサアキ。お茶が入りましたよ』
『サンキュー。ああ、瞬一、ブゥーの分は運んでやれ』
『うん』
『ごめんね、瞬一』
『ううん。構わへんよ。熱い物は無理して運ばんでええよ。危ないからな』
『ありがとう、瞬一』
『へぇー。瞬一、タカシにだけは優しいんだ。遺伝かな、それは?』
『あれっ。そぉ? オレはブゥーさんにも優しいで?』
お茶と差し入れされたどら焼きをテーブルに置いてやる。
『何で三つもあんの?』
『美味しいからv』
『瞬一。瞬一ってさ、本当はまー君より、底意地が悪いんじゃないの? オレ
だけ、太らせようと画策してんじゃないの?』
『そんなこと、ないよぉ』
『おい。今、嫌ぁな笑い方、したよね、瞬一。にやって笑ったよね』
『そんなん、気のせいやわ』
『嘘だぁ』
『なぁ、ブゥー』
『うん、何?』
白石はくるりと向きを変え、兄を見る。
『動物園は行ってもいいんだけど』
『えーっ、まー君には断る権利、ないよ。オレ、まー君ちに泊まる気だもん』
『だから、泊めてもいいんだけど』
『いいんだけど?』
『おまえのパスポートって、どーなってんの?』
『どーなってんの、って?』
『あれ、最後に使ったのって、いつだっけ? おまえがオレのロンドンの事務
所に冷やかしに来た時、あれが最後なんじゃね?』
『たぶん、そうだと思うけど』
少しばかり、白石のトーンが落ちて来た。
『あれってさ、まだ使えんの? おまえ、最近、どっか、行った?』
はたと考える。
『ああーーっ。もう、まー君の意地悪。何で早く言ってくれないの、馬鹿』
『何でオレが意地悪で、馬鹿なんだよ? 親切で聞いてやってんのに』
涼しい顔で兄はお茶をすする。
『はぁ、お茶が美味しいな。日本人だから、かな』
『ちっ。美人のタカシが淹れたから、だろ? イヤらしいんだから。ちょっと
瞬一。このお茶、飲んどいて。どら焼きは戻って来てから食べるから』
『うん、わかった』
『タカシ、後でもう一回、オレにお茶を淹れてね。じゃ』
タカシがたった一言、返す間もなく、白石は怒涛の勢いで駆け出して行った。
『一人でもバッファロー、だな、あいつ』
『どこか、お出掛けするんですか?』
『まぁ、な。いない間にばらすと豚に一生、ネチネチ責められるから、行き先
は言わないけど。そうだ。瞬一、おまえもパスポート、持っているんだよな』
『うん、一応。親、海外、さまよっとるから、何かの時用に』
『悪運強いから、長生きしそうだけどな』
鼻先で笑って、兄は何か、思い出したようだ。
『あ、まだ言えないのか』
『まだって?』
『たぶん、おまえの合格祝いの席で驚かせる気なんだろうと思うから、オレの
口からは差し控えるよ』
『えっ、父さん達も何か、隠し事してんの?』
『今更、何もないとも言い難いが』
クスクスと笑う兄は楽しげだ。
『良いことなん?』
『まぁ、そうなんじゃないの? オレ的には笑えて、おまえ的には恥ずかしい
話、かな』
『恥ずかしいん?』
『これ以上は拙いだろ?』
そう言って、兄は湯飲みを置いた。
『タカシ、きついんなら、おまえ、部屋に戻っていいぞ。後片付けはブゥーが
するから』
『大丈夫ですよ』
ニコリと笑いはしたものの、無理は隠せない。この頃。確かにタカシの様子は
おかしい。あの子、疲れているんじゃないの? 最初、白石にそう指摘された
時、瞬一にはピンと来なかった。だが、日が経つに連れ、鈍い瞬一にも見えて
来た。タカシの表情に陰りが表れ、動作も若干、鈍くなった。どこか、痛む所
でもあるんじゃないの? 白石にそう聞かれたほどだ。この頃、背中の痛みを
直接的にタカシが訴えたことはない。だが、それが一層、不安を感じさせるの
だ。
痩セ我慢スルヒトヤカラ。
案外、心労がたたっているのかもね。ストレスが痛みに変わる人、多いから。
そう白石に言われても、瞬一にタカシの心労の全てを拭い取ってやることなど
出来ようはずもない。彼の置かれた立場は決して、安気なものではないのだ。
___人間の、それも子供の出番なんか、ないかも知れへん。
デモ。
___自分の分は、オレに関する心配事だけは今日、オレが、自分で片付けて
やるんや。
「瞬一?」
「大丈夫。今日の第一志望、一発で決めて来る。行って来ます」
「はい。行ってらっしゃい」

 

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