「泣かないで、瞬一。お願いだから。泣かないで」
聞き慣れた声が掠れ、弱っている。
オレガ困ラセトルカラ、ヤ。
自分でもわかっている。瞬一が泣きべそをかきながら、聞き分けのないことを
言うからこそ、タカシは弱り果て、こんな今にも泣き出しそうな顔で心配げに
見下ろしているのだ。タカシとて、こんな形で人間界を去りたかったわけでは
ないはずだ。彼から見れば、ほんの子供に過ぎない瞬一が幼いなりに理解し、
せめて泣き笑いした顔ででも手を振り、それでもどうにかタカシを見送ること
が出来るようになるまで十分に説明をし、納得させて、その上で天界へ戻ろう
と決めていたことだろう。その彼が今、こうして、急遽、半ば、逃げるように
して立ち去ろうとしている現実には当然、それだけの已むを得ない理由がある
はずなのだ。
「何でや?」
こんな時に困らせてはいけないことくらい、承知しているつもりだ。しかし、
一旦、溢れ出した涙を止めることも、他に適当な言葉を捜すことも、瞬一には
出来なかった。
「嫌や。別れとうない。タカシとお別れなんか、しとうない」
「瞬一」
ギュッと、力任せに抱き締めた天使の身体。柔らかく、うっすらと甘い、良い
香りがする。まるで夢の中で抱き締める思い出のような、こんな感触を覚えて
しまった自分が将来、タカシを忘れ、他の何かでそれなりの満足が出来るとは
到底、思えない。タカシと誰かを比べ、落胆し、その度、自分はおろか、その
誰かまでも傷付けることになるのではないか。そう恐れるくらいなのだ。
子供ノクセニ、ナ。
「そんなん、嫌や。タカシ、行かんといて。なっ? だって、行く必要、ない
やん。お兄ちゃんは優しい人や。あかの他人のレオ君の面倒まで看てくれとる
んやもん。お兄ちゃんはもう絶対、天界に追われる理由なんかない。優しい、
普通の人間や。それに、やで? 昔の記憶があるのに黙っとったってことは、
お兄ちゃんかて、このまま、タカシと一緒におりたい、そーゆーことやろ?」
「瞬一」
タカシは一層、困った表情を浮かべる。きっと、果樹園の天使にこんな表情を
浮かべさせる自分は大悪人なのだろう。もしも、この場にレンでもいようもの
なら。
『タカシを泣かすな! このうすら馬鹿が』
そんな甲高い罵声まで聞こえて来るようだ。
___蹴られてまうかも、な。
『タカシに余計な心労を掛けるな、おまえが我慢すればいいんだよ!』
そう憤る佐原の様子も、容易に思い浮かべることが出来る。そして、コウの何
事か、言いたげな眼差しも。そんな彼らの気持ちも、一年近く一緒に暮らした
今なら、理解が出来る。皆、タカシを愛していて、彼を守りたい。彼のために
なら、自分が傷付くことを厭うようなことは有り得ないのだ。
___オレにかて、今なら、そんな気持ちがここに、胸にあるんやもん。理解
かて、出来る。同じ気持ちやって言えるもん。
 しかし、それでも、どうしても、それとこれとは違う話だとしか、瞬一には
思えないのだ。
ダッテ。
天使であり、堕天使である彼らには長い、長い寿命がある。少なくとも現役の
天使であるコウやレンには天使の証、白い翼があり、それがある限り、タカシ
と顔を合わせる機会があるやも知れない。だが、ただの人間に過ぎない瞬一に
とっては今夜の別れは即ち、今生の、いや、永遠の別れとなる。これから先、
何度となく生まれ変わることが出来たとしても、天界に暮らす天使と再会する
などとは、果たせるはずもない夢だった。もう、良い子にしていさえいれば、
きっと、いつか、天使に出会えるなどと信じていた、たった一年前の無邪気な
自分とは違うのだ。天界のあり方を知った今、天界へ戻ったタカシに何らかの
自由があるとはとても思えなかった。
「大体、何で、こんなことになっとるんやろ?」
自分をなだめ、勢いを取り戻すため、瞬一は涙を拭いながら考え直してみる。
「何で、オレ、こんなパニックに陥っとるんやろ? わりと冷静な方やのに。
ボンヤリしとるとも言われるけど。そう言えば、佐原君達も、いつもより馬鹿
になっとるってゆーとった。まぁ、あれは西ッ側の天使さん達が張った結界に
悪影響を受けとるせいらしいから、仕方ないことなんやろうけど。でも。そう
や。もう一人の果樹園の天使さんって、今、どこにおるん? 佐原君は大ケガ
をした身体を捨てて、何か、他の“物”に入っとる状態なんやないかって言う
とったけど」
「そうですね」
タカシは簡単に頷いた。
「魂はむき出しのままではそう長く存在出来ませんからね」
佐原の疑念を思い出す。天使には自分の身体を捨てることは出来ない。どんな
に自分を苛む、重荷に過ぎない身体であっても、そこから魂一つで、逃げ出す
ことなど、出来ないはずだと彼は言っていた。
「あの」
「たぶん、そのヒトの身体から魂を抜き取ったのも、新たな何かに収めたのも
魔物だったのでしょう」
タカシの淡々として、しかし、あまりにも哀しい声音に瞬一は息を呑む。いつ
の間にか、自分の感情を堪えきれずに流していた涙は止まっていた。タカシは
静かに目を伏せた。
「タカシ?」
「ここへ、人間界へ来て良かった。こうして、瞬一に出会うことが出来たし、
瞬一のお陰で一つ、疑問も解けました」
「疑問?」
もう一度、目を見開くと、タカシは瞬一を見据えた。
「どうしても、今、お別れしなくてはならないんです」
「何でやねん? オレにはタカシが慌てて、天界へ帰らなあかん、その理由が
わからへんのや。そうやろ? お兄ちゃんはもう普通の、真っ当な人間なんや
し、その、何かに入っとる、魂だけになってしもうたヒトも、本当は果樹園の
天使なんやもん。タカシと一緒なんやから、話せば何でもわかってくれるやろ
? 大体、お兄ちゃんが何で、この世でそのヒトと関わっとるんやろ?」
「答えたくありません」
むしろ、冷たいものさえ、感じる口調に驚き、瞬一が口を噤んだ隙にタカシは
話をすり替えた。
「とにかく。長い間、案じていたことが杞憂に終わって、安堵しました。あの
ヒトが健康で、お仕事に恵まれて、優しいお友達もいて、幸せに過していると
わかって、本当に良かった」
「優しいって、ブゥーさんのこと?」
「ええ」
「でも。結構、意地悪いで、あの人」
「いいえ。優しい人ですよ。いつも病床のお姉さんのことを考えている。あの
人の心の中は姉の回復を祈る気持ちで一杯です。他のものは何もないくらい」
「何も、ないん?」
「ええ。あいにく人魚の肉を食べることが出来たとしても、人は不老不死とは
ならないし、天使の肉を食べさせたとしても、お姉さんは治癒しないでしょう
けれど」
「そう言えば、ブゥーさん」
いつだったか、白石は真顔でタカシの手を取り、鳥の味だろうかなどと、冗談
とも付かないことを言っていた。
「あれ、食い意地が張っとったからやなくて、食べたらお姉さんが元気になる
かもって、考えとったんや」
「藁にでもすがりたい気持ちだったのでしょう。お姉さんを大切に思う、その
気持ちを咎めることは出来ませんよね。結果はどうであれ」
結果? 
「どういう意味なん?」
タカシの顔に走った苦いものを見咎める。
「タカシ?」
「瞬一。一先ず、外へ出ましょう。佐原が突っ込んで来る前に」
「佐原君?」
「コウを遠ざけたということは、彼にはここに突入する覚悟があるということ
なのでしょう?」
「そんなこと、言うとったけど」
「だったら、今すぐここを出て、佐原が早まった真似をしないようにしなくて
は」
タカシは携帯電話を手に取った。
「タカシ?」
「僕は天界には何も持ち込めないでしょう。でも、もし、機会があったなら、
このストラップ、コウか、レンに渡してくれませんか? それなら、どこかで
受け取ることが出来るかも知れないから」
瞬一が贈った携帯ストラップ。天使の片翼をあしらったそれ。タカシのそれは
右翼で、瞬一の物は左翼だった。二つは一対となっている。
『二つ合わせるとハート型vだってさ。馬鹿なんじゃないの?』
コウのやっかみでしかない、意地悪を思い出す。
「本当に、帰る気なん?」
「ええ」
「だったら。お兄ちゃんの杖は? それもコウ君達に渡せばいい?」
「いいえ。天界には瞬一の思い出だけを持ち帰ります」
「えっ。何で? だって、お兄ちゃんは」
「瞬一が、瞬一だけが、僕を大事に思ってくれたからです。瞬一と一緒にいて
寂しい思いなんてしたことがない。瞬一が今、どこを見ているのか、不思議に
思ったことも、心細いと思ったこともない、だから」
「それって。あの、もしかして」
瞬一は口ごもる。自分が踏み込んでも良い領域だとは思えない。それにタカシ
の哀しげな横顔にただ、胸が詰まるようだったからだ。
「昔、魔物と一緒にいて、優しくしてくれて。とても嬉しくて、楽しいのに、
寂しいと思ったことがありました。いいえ。正確には寂しいと感じていたのだ
と、ここへ来て、瞬一に出会って、初めてわかったんです。だって、その時は
寂しいという感覚を知らなくて、どうしてよいのか、それもわからずにただ、
黙っていただけだったのですから」

 

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