ギュッとばかりに強く、肘を掴まれる。驚いて、視線を走らせた先。そこに
はまるで、瞬一に取り縋ろうとするような眼差しがあり、思わず、瞬一は息を
呑み込んだ。
「タカシ?」
不意に予期していなかった緊迫感を覚える。あまりにもタカシは必死なのだ。
デモ。
何デ?
___何で? 何で、そこまで必死なん? 
その理由が正直、わからない。見知らぬ異世界、人間界で目覚め、どう考えて
も初めて、目にしただろう人間、瞬一を見ても、弱ってペットボトルサイズと
変わっていたタカシはそれでも、一向に怯えた様子を見せなかった。案外、胆
が据わっているのではないか、そんなことを考えた覚えがある。それを思うと
今、タカシが感じている不安は強過ぎるものなのではないだろうか? 
___不安って言うか。恐怖心って感じだよな。明らかに怯えて、それでオレ
なんかを頼りにしている、みたいな。
確かに、黒い服を着た兄は長身で強面ではある。だが、タカシにとっては良く
知った優しい昔の恋人でもあるはずだ。魂と記憶が揃ったなら、魔力がない今
こそ、むしろ安心して寄り掛かれる存在に変わったと、言えなくもないのでは
ないか? 
___そうだよ。天界に引き離される心配だけ、するのが普通じゃん。なのに
どうして、タカシ、こんなに怖がるんだ? 
タカシの心配。この一つ世界に元魔物と二人の果樹園の天使が揃った今、何が
起こるか、わからない。タカシ本人はもちろん、佐原達もタカシの持つ、果樹
園の天使特有の力が何らかの形で悪用されることを何より恐れていた。実際、
それは杞憂とは言えない状態に陥っている。復活するはずのない、粉砕された
魔物の魂が甦り、記憶も取り戻しているらしい以上は。
 そして、癒えぬ傷に覆われた身体から逃れ出ることが出来たもう一人の果樹
園の天使の、その魂。それが今、どこにあるものか、恐らくタカシはわかって
いる。
モシカシタラ。
先ほど、タカシが訴えた不安げな言葉を思い出す。
『冷えて、暗くて、寂しいあの心と向き合う自信がない』
そう、訴えたその“心”こそ、何かに納められていると言う、果樹園の天使の
魂なのではないか? そして、もしも、その冷えて、タカシを怯えさせる魂が
この近くにあるのだとしたら。
「瞬一」
小さな声に呼ばれて、我に返る。瞬一の身体を盾にしてでも、タカシは少しで
も、兄から離れたいと望んでいるようだ。その意向を察し、瞬一もとっさに兄
の前に立ち塞がるようにして、自分の頼りない、やや小ぶりな背中にタカシを
隠した。
「二人して、何やってんの?」
「あの」
「そろそろ、大人も、子供も寝る時間なんじゃないの?」
「で、でも。つい、さっきこそ、レオ君、お使いに出たばっかりやん?」
「ああ。でも、あいつ的にはこの時間帯がリアルタイムなんだろう? 最近は
早寝早起きに挑戦中のようだけど」
「お兄ちゃんがそうせぇって、言うたんや?」
「まぁ、ね。健康第一だからな」
「でも」
「でも?」
聞き返され、独特な三白眼に見据えられ、そっと半歩分、背中のタカシごと、
後ずさる。
「癌には効かへん、よね?」
「そうだろうな」
「気休め、なん?」
「オレはあんまり、気休めって言わない方だと思うけどな。な、タカシ」
背後のタカシが一層、緊張し、瞬一の背中、セーターを掴むのを感じ取った。
半端ないその緊張ぶりに瞬一も、のんきに別れを惜しみ、何とかして、問題を
先送り出来ないものかと、好き勝手な模索を続けて来た自分がいかに悠長で、
先の見えない人間だったかを思い知らされるようだ。
本当ニ切羽詰マットッタンヤ。
「おまえに頼みがあるんだ、タカシ」
「お、お兄ちゃん、って、、、」
どう切り出して良いものか、それすらわからず、口ごもる。今、兄に瞬一の戸
惑う意味がわかるのか、否か。それを穿鑿してみる時間は要らなかった。兄は
ニヤリ、といかにも意味深に笑って見せたのだ。
コノ人ニハ前世ノ記憶ガアル。
そう瞬一が確信するに足るだけの深い笑み。
「こっちに来てくれ」
「嫌です」
小さな声で、それでもタカシは拒否した。
「なぜ? 今更、尻込みしたって、仕方がないことくらい、おまえが誰より、
良くわかっていることじゃないか? 直接、触れようが、触れまいが、大局的
にはもう何ら変わらない。あいつは自力ででも出て来るだろう。何せ、自分と
同じ力を持つ、おまえと言う果樹園の天使がこうして、同じ時空にいるんだ。
千人力だろうからな」
「でも、やっぱり、協力は、、、」
「そのつもりでこんな所まで来たんだろう? オレに会うためにだけ、やって
来たんじゃないよな。おまえは利口で、真面目な良い子だものな。おまえなら
薄々、わかっていたはずだ。あの、将来、天界を担うだろうお偉い天使が何を
目論んでいたのかも」
事実なのだろう。タカシは苦しげな表情を見せた。
「おまえも、そうしてやりたいと思った。だからこそ、わざわざ乗った話なん
だろう? だったら、素直に手を差し伸ばしてやればいいじゃないか。どうせ
なら、あいつも同じ果樹園の天使の手で救われたいだろう」
「救って差し上げたいのは山々でした。でも」
ようやく顔を上げたタカシは覚悟を決めたのかも知れない。瞬一の背に隠れた
ままでは到底、“彼”とは向き合えない、そう理解したのかも知れなかった。
「何かの中から魂を引き出してあげたとしても。その魂を一体、どうやって、
よりにもよって、人間に納めようと言うのです?」
___えっ? 人間の中に天使の魂、入れる気なん? ええっ? どーやって
「オレは適切な処置だと思うがね。あのお人好し家族の愛情を利用しない手は
ないだろう?」
「利用だなんて」
「お気に召さないか。だが、天界はお人好しの果樹園の天使の愛情を利用して
魂を育てさせているじゃないか?」
「そんな言い方」
「タカシ。今更、何を戸惑うんだ? 助けてやりたいんだろう? その初心を
貫徹すれば、それでいいじゃないか?」
「それは。確かに助けてあげられるものなら、そう考えて、ここへ来たことは
事実です。でも」
「でも?」
「あの状態では」
タカシは言い辛いことなのか、それきり押し黙り、項垂れた。
「タカシ。その続きが聞きたいのだがね、おまえの口から」
促され、しかし、タカシは僅かに首を振っただけだった。どうしても言い辛い
ことらしいのだ。
「ならば、オレが代わりに言ってやろう。あんなささくれ立って、荒廃した魂
を野に放つことは出来ない、そう思っているんだ」
「あのヒトが悪いわけではありません」
「そうだろうな。あいつを見捨てた天界が何より、悪い。そして、卑しい人間
共が、な」
タカシが息を呑むのがわかった。その反応を見れば、瞬一にも想像が出来た。
優しいはずの果樹園の天使の心が変わり果てた、その経緯を知らされたような
気がする。
___人間に傷付けられたんや。
「タカシ」
タカシは瞬一を見た。
「皆、瞬一のような優しい人だったら、良かったのに」
「瞬一が優しいんじゃない。おまえが天使の姿をしているからだ。あの天使も
おまえと同じ姿でここへ降り立つことが出来れば、おまえと何ら変わらない、
幸せな時を過ごすことが出来た。おまえと同じ姿があれば、この世で出会う者
全てが瞬一同様、あいつに優しくしてくれたはずだ」
「お兄ちゃん」
違うと言えなかった。兄の言葉がタカシを失望させるものであったとしても、
自分は違うと叫ぶことはもちろん、兄の名を声高に呼ぶことも出来なかった。
兄は本当のことを言っているのだ。ごく小さな声で呼んだ兄はそれでも、瞬一
を見やった。
「何だ?」
「そのヒト、そのヒトの魂、この家にいるの?」
「ああ。先日、ようやく届いたよ。子供の頃、記憶がないまま、オレはずっと
何かを捜し、誰かを待っていた。自分の素性も、あいつの魂を何に入れたのか
も忘れていたのに、よく捜し出したもんだなって、自分でも感心するよ。共産
圏に渡っていたとは思わなかったし」
「あの」
「何だ?」
「お兄ちゃんには記憶があって、でも、魔力はない、んだよね?」
「今のところは、な」
「今のところ?」
「ちゃんとタカシが持って来てくれたよ。オレの言い付け通り、にな」
弾かれたようにタカシが顔を上げた。
「言い付け? まさか?」
「そう。別れ際、オレはおまえに頼んだ。いつの日にか冥界の“蓋”に行き、
魚から預かって来てくれ。オレの右目を人間界へ持って来てくれ、とな」
確カ。
 北ッ側の親玉に飛ばされ、辿り着いた異世界。そこには摩訶不思議な白泥の
沼が広がり、魔物が作った小舟と、赤い魚が棲んでいた。
確カ。
一粒、何かが記憶の湖面に投げ入れられて、波紋を広げ始める。そんな錯覚に
囚われたかと思うと、速やかに失っていた記憶の断片を取り戻していた。赤い
魚は人の形を取り、タカシを助け、その上、色々なことを教えてくれた。親切
なあの男は言ったはずだ。自分は主人の右目から創られた、と。そして、別れ
際、彼の右目はどこかに消え失せていた。
モシカシタラ。
あの紫色の目を魚はタカシに託したのではないか、主からの言い付け通りに。
___でも。どこに? 
突然のタカシの悲鳴にギョッとして、立ち尽くす。あっと言う間に天使の姿に
戻ったかと思うと、タカシは背中から真っ赤な光を放ちながら、崩れ落ちたの
だ。
「タカシ!」

 

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