昏倒したタカシを抱え上げようとして、瞬一は自分の手が触れた、慣れない
感触にぞくり、と背筋を強張らせる。
何ヤ? 
尋ねるまでもない。十中八九、わかっている。
オレガ認メトウナイダケヤ。
安いドラマのようだ。そう自嘲しながら、それでもやはり、恐る恐る自分の手
を顔の前まで持ち上げて、じっと見た。赤い。赤過ぎる。あまりにも赤い液体
に塗れた自分の手。指の一本、一本までことごとく赤く染まっている。瞬一は
その温かさに怯んだ。
「タカシ!」
いつも遠慮がちに違和感を、僅かな痛みを訴えていたあの辺り。タカシの背が
血に塗れて、床にまで溢れている。
「何でやねん? 一体、一体、どこで、何でケガしたんや?」
動転し、口走る瞬一を尻目に兄は冷静だった。
「違うだろ? それじゃ、あんまり的外れだろ? タカシはケガなんぞ、して
いない。それはケガじゃなくて、仕掛け、だ。一体、どこで仕込まれたのか、
それを考えた方がましなんじゃないのか?」
「仕込む?」
兄、いや、魔物は言ったはずだ。あたかもタカシに自分の魔力を冥界の蓋から
ここ、人間界まで運び込ませたかのような、そんなことを。冥界の蓋。白泥の
沼。赤い魚。小舟。幾つかのキーワードがバズルの一欠けらとなって、脳裏を
過ぎる。
アノ時。
考エロ。
今なら、自分は全て、思い出せる。もう誰かが、いや、北ッ側の親玉が掛けた
術は解け失せて、瞬一の軽い、部分的な記憶喪失状態は解消されているのだ。
___よく考えれば、絶対にわかる。だって、オレ、あの妙な、薄暗い世界を
覚えている。湿気た、肌寒い感じとか、葦みたいな背の高い草に覆われた不気
味さ加減とか。色んな匂いとかも。あの時。沼に引き擦り込まれたタカシを魚
さんが人化して、取り戻してくれて。それで色んな話を聞いて。過去と未来と
が交錯するって不思議な瞬間に、昔、あそこでデートを楽しんでいたタカシと
魔物さん、つまり、当時のお兄ちゃんを乗せた小舟と擦れ違ったっけ。
少しばかり瞬一の胸を切なく震わせた悲しい記憶も、今となっては新たな発想
のキッカケに替えられるものかも知れない。
___オレだって、強くなっている。そうだよ。へこんでばかりもいられない
んだ。
タカシの身体を抱き締める。
モット、ヨク考エロヨ、オレ。
___あの時。そうだ。オレが二人の乗った小舟を見たってことは向こうから
も、お兄ちゃん達の方からもオレが見えたってこと、なのかな。タカシもあの
時の、冥界の蓋での出来事は所々ってゆーか、大半、忘れさせられたみたいだ
けど、でも。それ以外って言うか、昔の記憶は手付かずであるはずなのに昔、
あそこで魔物さんとデートしていた時、未来から来た小舟と擦れ違ったことが
あるなんて話、してくれたことはないから、タカシには元々、あの時の記憶は
ないのかもな。
イヤ。
魔物が造る繭型の結界の中、寛いだタカシはその外にある世界には一片の関心
も持たなかったのかも知れないし、いっそ、端から何も見ていなかったのかも
知れない。
___外なんて、見えていたって、見えていなくたって、恋人と一緒にいたら
見るはずもない、か。

 こんなことを考え続けること自体、所詮は脱線行為なのだろうか? ふと、
自分が時間を無駄にしていると思う。確かに自分には求める答えまで直線的に
突き進むことが出来ないという難点があり、どうやっても遠回りに、行ったり
来たりを繰り返しながら考える傾向があることは否めない。その悪癖のために
もしかしたら、自分が見積もっている以上の大損をしているのかも知れない。
そう考えることもあるが、しかし、やはり、いつものように一つずつ、自分の
ペースで辿って行かなければ、めざすゴールには辿り着けそうになかった。
ダッテ、オレ、パニック起コシトルンヤモン。
こんな時に日常でさえ、出来ないことを自分に求めても意味がない。
___のろのろで、効率が悪くても。足が止まるよりはましやって思わなきゃ
前に進めへんから。
タカシ。

 名前を呼びたい。あらん限りの大声で、出来るなら叫びたい。そう願うが、
瞬一にはそれが出来なかった。名前を呼べば、こちらを見てくれる。ニコリと
微笑んでくれる。もし、そんなとっくに慣れ、日常と化してしまった幸せに、
二度とあずかれなくなったら。もし、タカシがこのまま、閉じた目を開けても
くれなかったら。そう考えると恐ろしく、タカシと名前を呼ぶこと、それ自体
が怖くて堪らない。しっかりして欲しい。いや、自分こそ、しっかりしなくて
はならない。自らを奮い立たせながら、瞬一はまた考え始める。何かを考えて
いなければ、震え出しそうな自分を止められなかった。
 小舟から降り、沼から上がって歩く帰り道。タカシと瞬一を“適当な”場所
まで送ってくれた魚は途中、右の目を紛失していた。ぽっかりと口を開けた、
空っぽの真っ暗な眼底を思い出す。あそこに嵌っていたのは彼の主、魔物の右
目だったはずだ。
___いきなり消えたって感じで、本人は平気もいいところだった。それに。
赤い魚は『お偉い天使がどうにかしてくれる、二人を人間界へ戻してくれる』
そんなことを言ってもいなかったか? 
ソヤッタラ。
瞬一とタカシを冥界の蓋まで飛ばしたのも、人間界へ帰してくれたのも同一の
人物だった、いうことになるのではないか?
___天界のお偉い天使、北ッ側の親玉さんのことや。
飛ばした彼以外にあの異界からの速やかな救出を図ることが出来る者はいない
はずだ。
___他のヒトは誰も知らんかったはずやし、コウ君達には力の及ばへんこと
やもんな。
だとすれば、全てがタカシの知らないところで了解済みであった、ということ
なのだろうか? 
___全部、端から仕組まれとったってことなんか?
「ん」
「タカシ?」
 小さな呻き声に我に返り、血塗れの背中に目を凝らす。衣服に傷はないよう
だ。しかし、間違いなく血は内側から溢れ、白い服を汚している。
「あれ? いーひんな」
そう言えば、兄はどこへ行ったのだろう? そこにいたはずの姿が見えない。
瞬一が夢想している間に立ち去ったのか、現実に戻り、見回してみたが、兄の
姿はなかった。どこへ? 考える間もなく、兄は戻って来た。両手に巾着袋の
ような物を掲げて。
「それ」
何かに納められていると言う、もう一人の果樹園の天使の魂。
「もしかして」
「そういうこと、だな」
兄はぐるりと自分の部屋を見渡し、適当な場所として、チェストの上と定めた
ようだ。スタスタと歩み寄り、そっとそれを置いた。重そうだ。そう思った。
きっちりと口を縛った紐を外そうとしている兄の手元を見据え、瞬一はタカシ
を抱えた手に力を込めた。
「この石、セラフィナイトって言うらしい。こいつの方が格上天使なのにな」
石の名の由来を揶揄しているらしいが、瞬一は天使の名前に不案内だ。本当に
兄が言っている意味はわからない。それに今、肝腎なことは名前ではないはず
だ。兄が取り出したそれはモスグリーンの、不思議な形をした石だった。初見
ではチーズのようなコロンとした形かと思ったが、よく見れば、そんな単純な
構造ではなかった。
___勾玉をギュッと丸くしたみたいな。
白銀の模様がまるで羽根のようだ。
タカシノ羽根トヨウ似トル。
「その中におるん?」
「いるよ。機嫌は良くなって来たみたいだ」
小さく笑って、兄は石をチェストの上に戻してやる。
「どうする気なん?」
「約束を履行するだけだ」
「約束?」
「そう。随分、昔のことだが、人間界で変わり果てた果樹園の天使に出会った
ことがある。それが全ての始まりだった」
「そのヒト?」
兄はチラリと石を見やり、頷いた。
「ほんの気まぐれだった。天使なのに、へらへら笑っていないそいつに興味が
湧いた、ただそれだけのこと。実体がないんで、完全な仕事は出来なくてな。
続きは後でってことになった。結局、それが全てなのかも知れない」
「気まぐれのためにタカシを利用したん?」
「おまえに咎められる理由はない。何せ、おまえが一番、役得に預かっている
んだからな。天使と出会えて、満足だろう?」
歩み寄って来る兄に合わせて、瞬一もタカシを抱え、後退る。
「渡せ」
「嫌や」
「手遅れになるぞ」
「手遅れ?」
「オレの、元々の目が体内にあるんだ。天使がそう長く持ち堪えられるはず、
ないだろう?」
「元々の目」
「魚の右目は元々、オレの目だった。真っ赤な葉っぱにオレの右目を加えて、
あいつを作ったんだから」
「それじゃ、あの時、魚さんは右目をタカシの背中に?」
「そういうことになるな。眼球から魔力がこぼれないように予め、そいつとの
別れ際、正確にはそいつが時間稼ぎに、時を止めてくれた時に背中に膜みたい
な物を仕込んで置いたんだ。だから、魚はそれに右目を包んで、そいつの背中
に入れて寄こした。むき出しのままだったら、とっくに死んでいるだろうよ。
もっとも、もう破水した状態だから、そう長くは持たないがな。さてと。瞬一
君。事情が理解出来たんなら、おとなしくそいつをオレに渡せ」
ぐったりとして、苦しい表情すら浮かべないタカシの顔面蒼白ぶりを見れば、
急を要することくらい、瞬一にも一目で理解出来ることだ。だが、魔力を取り
戻そうとしている兄にその魔力の根源、右目ごと、タカシを手渡す気持ちには
なれなかった。
「嫌や」
「強情な奴だな。せっかく御機嫌が回復して来ていたのに」
兄は何を言っているのだろう? 訝しく思った、その時だった。形容し難い、
美しい音がした。そう思った。
鈴? 
小さな、美しい音。その音に惹かれ、見やった先。白い光が蠢いて、真っ白な
アラビア風の、花嫁のような形が現れる。
___タカシ? 
そう思うなり、瞬一は白い閃光に吹っ飛ばされていた。
「うわぁっ」
 ・・・
 短い悲鳴を上げた、そこまでが現実だったように思う。ふと気付くと、瞬一
は二階でもなく、タカシの部屋でもなく、一階、それも玄関先に倒れていた。
ブロンズ像に寄り掛かるようにして。
「さすがは天使。意外に優しいな。ちゃんと加減してやるとは」
階上に立った兄の腕にはタカシが抱えられていて、瞬一の方は手ぶらだ。
「タカシ!」
「心配するな。おまえを煩わせるようなことはしない。おまえは親父の大事な
息子だからな」
兄の言葉の意味がわからず、ただ、兄の傍らに立った正装らしい白い果樹園の
天使を見つめる。格別に美しい衣装だ。頭上から白い光の粒が幾筋も連なって
流れ落ち、タカシよりもかなり長い髪を飾っている。袖口の紐飾りもタカシの
それよりはるかに豪奢で、小さな鈴が揺れていた。美しいヒトには違いない。
タカシとそっくり同じ顔貌を持ち、しかし、彼には全く表情がなかった。
「おふくろの願いは唯一つ。あの男の幸せ、それだけだった。あんまり愚かで
いっそ、羨ましい女だったよ。馬鹿馬鹿しくなるくらいにね」
兄の吐き捨てたセリフが本心なのか、それとも強がりなのか、瞬一には考えて
みる余力がなかった。無表情なまま、それでも何か言いたげにも見えるしぐさ
で“彼”が兄を見やったからだ。
「心配いらない。ブゥーは良い奴だ。姉貴の方も良い子だった。ただ、家中、
運がなかっただけなんだ。おまえを内包すれば、姉貴の身体は快方へ向かう。
家族も皆、看病疲れから解放されるし、おまえも安らかに眠ることが出来る。
何の問題もないさ。ただ。あの邪魔な堕天使はどうにかしてくれよ。オレには
当分、無理だからな」

 

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