邪魔な堕天使。
___邪魔な堕天使?
現世、この地上に何人の堕天使が滞在しているのかなど、瞬一ごとき、一介の
高校生には知る由もないことだ。それでも今、この場で、その上、兄にとって
邪魔な堕天使と言えば、ただ一人、佐原しか、在り得ないのではないか? 
___待ってや。今、お兄ちゃん、どうにかしてくれって、そのヒトに言った
やん。それって? 
確かに兄はもう一人の果樹園の天使の、具現化した魂にそう言い、あろうこと
か、タカシを抱えたまま、踵を返したのだ。連れて行かれてしまう。そう直感
してしまえば、打ち付けた痛みなど省みることは出来なかった。
「待ってや。お兄ちゃん、待って!」
叫ぶと同時に跳ね起きようとして、すぐに瞬一は動きを止めた。そうせざるを
得なかったのだ。
チャリ
そんな柔らかく、心に響く鈴の音に耳をくすぐられたかと思うと、同時に視界
いっぱいに白いものを見た。
エッ? 
階上にいたはずの天使がすぐそこに立ち、瞬一を見下ろしている。ふと、庶務
の天使の言葉を思い出した。
『時代が時代なら。例え、靴の先だって拝んではいけない、本当にありがたい
存在だったのですよ。今時の若い、それも、南ッ側の天使にはわからないこと
なんでしょうけれどね。我々、少しばかり歳を取った天使にとっては、今でも
信じられないことなんです。お顔を拝見して、その上、お話までさせて頂ける
だなんて。ありがたいお言葉を賜って、微笑んでも頂ける。夢のようなんです
よ、本当に』
差し入れに訪れた庶務の天使はそんなことを言っていた。彼が言うその靴先が
今、瞬一の目の前、すぐそこにある。古い時代、ひたすらありがたく、そして
遠い存在だった頃の果樹園の天使。話すことは出来ないが、親玉クラスの者で
さえ、まともに対峙したくないと思うような戦闘能力を併せ持った存在が今、
身体を失い、魂としてそこに立っている。タカシの物よりも、更に装飾的で、
とても歩くための道具ではなさそうな靴を履いて。
・・・
 瞬一は恐る恐る、視線を上げて行く。真っ白な指先を飾る爪はひどく長い。
天使ノ爪ヤナイ。
そう思った。コウも、レンも爪は短く切っていた。中でも一際、タカシは爪を
短く切っていて、深爪なのではないかと聞く瞬一に微笑んで返した。
『ええ。でも、万が一にも傷付けたら痛くて、かわいそうでしょ。魂はとても
柔らかいものだから。そぉっと抱いていてあげないといけないんです。こんな
こと、僕が言ったって、コウやレンには内緒ですよ。秘密なんですからね』
そう小さく言って、いたずらっぽく笑ったタカシを思い出す。ならば、この爪
は明らかに果樹園の天使としてのものではない。だとすれば、彼はとうにその
責務を離れ、異なる存在へと変わり果てているということになる。
___顔は綺麗やけど。タカシとそっくり同じ顔なんやけど。でも、違うんや
な、このヒトはもう。
 長い爪を持つその右手は一枚の羽根を握っていた。白い、大きな風きり羽根
だ。しかし、彼自身の背には今、翼はない。
ジャ、誰ノ? 
じっと目を凝らすと、白い羽根には僅かに血が滲んでいた。
マサカ。
無理やりに引き抜いたものなのではないか? 
モシヤ。
もしや、力任せに引き抜かれたタカシの羽根なのではないか? そう思い付く
なり、瞬一は弾かれたように顔を上げ、そのヒトと目を合わせる。タカシより
幾分、背は高い。そして、もう一箇所、決定的な違いに気付いた。
アッ。
長い髪に塞がれていた右の頬が初めて、見えたのだ。
アザ? 
左頬はタカシと同じく白い、すべらかなものに見えるのに、右の頬には黒く、
ただれたような跡がある。
___何や、それ? 
悪意などないつもりだったが、瞬一の素朴な疑問を感じ取り、それを悲しいと
彼は感じたようだ。すっ、と表情に寂しげなものが浮かび上がり、その変化に
気付いた瞬一も自分の失敗を悟った。触れてはいけないことだったのではない
か、彼の心の傷そのものだったのではないか、そう悔やんでみたものの、もう
間に合わなかった。彼は悲しみと同時に怒りをも思い出したのかも知れない。
かっと見開いた目が真っ赤に潤んだかと思うと、手にしていた羽根が赤く輝き
始めたのだ。だが、そのおどろおどろしい赤さは一瞬にして消え、白みの強い
金色へと色を変え始める。
___何を? 一体、何をする気なんや? 
天使はそのまま、右手を上げ、その腕を鋭く振り下ろした。羽根は矢のように
放たれたのだ。佐原をめがけて。
「佐原君!」
・・・
 外にいるだろう堕天使の身を案じ、とっさに広げた瞬一の右二の腕を貫き、
羽根はそのまま、突き進んでドアへと吸い込まれ、消えてしまう。
エッ、嘘? 
とっさに自分の二の腕を押さえ、様子を見るが、通常と何ら変わらなかった。
セーターにもかぎ裂き一つない。
___でも、今、すっごく熱いって言うか、変な感触はあったで? それやの
に、何で? 
とりあえず、自分は無事だ。そう確認し、慌てるあまり、縺れそうになる脚を
どうにか進めて、ドアの外へ転げ出る。
「佐原君!」
ばっ、と二筋の白い閃光が門扉の向こう側を走り抜けて行くのが見えた。コウ
達だ。そう直感し、その光を追うように瞬一もひた走る。
「佐原君!」
やはり、あの水色の車の傍に、いや、車に寄り掛かって、佐原は立っていた。
もう二人の天使も、それぞれ佐原の脇にいる。
「佐原君が」
今にも泣き出しそうなレンと、口を真一文字に結び、何かを堪えているコウを
交互に眺め、佐原はニヤリ、と笑って見せる。
「どうよ? 両手に花だろうが」
軽口を叩く、しかし、その胸にはあの羽根が突き刺さっていた。一目で致命的
とわかる位置に、ずっぽりと。
「まさかな。こー来るとは思わなかったな。あじな真似、しやがる。さすが、
年の功だぜ」
フフッ。
自嘲しているようにも見える佐原の苦しげな笑み、その意味するところが瞬一
にはわからなかった。
「早く抜かんと」
「大丈夫。死ぬわけじゃねぇ」
「死ぬわけじゃないって?」
「振り出しに戻んのよ。意気地のねぇオレのケツ、まさか、あいつに叩かれる
とは思わなかったけどな」
「佐原君」
「レン、コウを頼むぞ。立派に出世させてやってくれ。天界の未来が掛かって
いるんだ。しっかりやってくれや」
「うん、わかっている。オレが付いているから大丈夫」
「おい、違うだろ? オレがおまえの面倒、看ているんじゃねぇかよ。大体、
オッサン。己の行く末を心配するのが筋ってもんだろうが」
「へへっ。オレは戻って来るぜ。そこのとこ、忘れんなよ」
「わーってるよ。うぜぇ奴」
ニヤリと笑い返すコウの様子を見、安堵の表情を浮かべて、佐原は今度は瞬一
を見やった。
「タカシを頼んだぞ」
「何で、そんな自分の役割りは終わった、みたいな言い方、すんねん? 早く
病院行って、治療せんと」
「オレは人間じゃねーよ。病院行ったって、意味はねぇ。それに。オレは死ぬ
んじゃねぇ。これから天使に戻るんだ」
「えっ?」
「長生きしな、ボウズ」
笑って見せたかと思うと、その顔はいきなり、落下した。慌てて、コウとレン
が両方から手を差し伸ばし、地面への転落は免れたらしい。オギャー。そんな
泣き声が聞こえ、瞬一は思わず、眉をひそめた。
「何で赤ん坊の声真似なんか、すんねん? こっちは本気で心配しとるのに」
「真似じゃないよ。佐原君は一からやり直すんだ、天界で」
「一からって?」
レンがゴソゴソと抱え直す佐原の服の中にいつもの、あの見慣れた長身痩躯は
ない。上着だけで十分、包むことの出来る小さな身体が一つ、レンの両腕の中
に残されていた。
「佐原君が、赤ちゃんに、、、」
絶句する瞬一を尻目にレンは穏やかに微笑んだ。
「あのちっちゃい翼がちょうど良い身体になっちゃったね、佐原君。こんなに
小さいの」
「そうだな」
頷いて、足元に落ちていた剣をコウが拾い上げる。
「こっちも浄化されちまった」
黒い剣と思っていたそれは白く、短く変わっていた。
「あの、果樹園の天使が?」
「うん。殺そうと思えばやれただろうにね」
レンの呟きにコウは小さく首を振った。
「いや。たぶん、果樹園の天使には殺す、って力はなかったんだよ。だって、
なぎ払ったとは聞いたけど、殺したとは聞いていないじゃん」
「そっか。やっぱり、果樹園の天使だもんな。そーだよね、きっと、たぶん、
そうなんだろうね」
「これから、どうするの?」
「帰るよ」
「帰る?」
レンはあっさりと頷いた。
「だって、佐原君を天界に連れて帰らなきゃ。天使の赤ちゃんなんて、人間界
では暮らせないもん。こら、パタパタしないでよ、佐原君ってば。くすぐった
いじゃん?」
赤ん坊をあやすレンをチラ、と見やり、コウは瞬一の前に立った。
「こんな形で戦線離脱することになって、お前には申しわけないが、オレ達は
一度、天界に戻るよ。二人を置いたらオレは速攻、戻って来るつもりだけど」
「つもり、なんや?」
「ああ。正直、向こうの様子がわからないからな。確約は出来ない」
「そう、やね」
「北ッ側の親玉も絡んでいるとなると、な」
人間である瞬一にも、事態の深刻さは想像に難くない。完璧な階級社会である
天界において、あってはならない反乱だったのだ。
「でも、何で? 北ッ側の親玉さん、何でそんなことをしたん? あのヒトを
助けようと思ったんやろうか?」
「恐らくはな。庶務や西ッ側の奴らは人間界にいながら、人間には関わらない
暮らし方をしているからな。どこかでそのヒトに出くわすか、噂話でも聞いて
しまえば、救ってあげたいと思うのは当然だろうし、あの親玉も、ある意味、
人間には一際の恨みを持っていたんだろうからな」
コウは小さく、やるせない息を吐く。
「きっと、自分の魂の双子、佐原君を堕天使に追い込んだ人間の悪行を恨んで
いたんだろう。そんな時に敬愛する果樹園の天使が人間界で、人間に酷い目に
遭わされていると知れば、こーゆー展開もあり得た話なのかも知れない」
酷い目。あの右頬を思い出す。それと同時にコウは顔を歪め、レンは一歩だけ
退いて、そっと背を向けた。二人には瞬一を通して、彼の傷が見えてしまった
のだろう。
「やっぱり、あれ、人間の仕業なんやね?」
「踏みにじられた、心の傷なんだろう。罰当たりな連中め」
コウの低く抑えた声音に滲む怒気と、背を向けてしまったレンの哀しみようを
見れば、瞬一にもあの天使が味わった苦痛の全容が見えたように思えた。
「ごめんな」
「おまえが謝ることじゃない。だって、おまえは」
コウはハッとしたように口を噤み、次いで遠くへ目を凝らしたようだった。
「何?」
「戻って来た」
白石の車だ。
「じゃ、ブゥーさん、やっぱり、お姉さんを?」
「ああ。西ッ側の天使がいて、阻まれた。それに。正直、オレ達の出る幕じゃ
なかった。おふくろさんに圧倒される思いがしたんだ」
「おふくろさん?」
「姉弟の母親」

 

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