白石とその姉の母親。彼女は寝たきりの娘に付き添って、ずっと病院にいる
はずだ。
ダッテ。
___もう、後がない人なんやろ、ブゥーさんのお姉さんって。
「息子がどう説明したのか、その辺りはわからないが。母親の方も、“賭けて
みる”覚悟を決めていたようだ。オレ達天使が阻むまでもない。病院だって、
自分達が預かっている患者を勝手に連れ出されまいと立ち塞がった。だけど、
それをおふくろさんが制したんだ」
「制したって? 待って。おばさんが一人で、どうやって? 大きな病院なら
当然、警備員さんだっておるやろ?」
「むろん、警備員の類いはいた。でも、母親が『娘をこのまま、病院のベッド
でなんか、死なせたくない』って、自分の胸を果物ナイフで突いたから」
「胸をナイフで突いたら、死んじゃうやん?」
「それだけの覚悟だった、ってことだろう。結果、病院は今、蜂の巣を突いた
ような大騒ぎさ。その混乱に乗じて、息子は姉を抱えて逃げおおせたんだ」
 瞬一の自宅前に横付けした車から白石は何か、大きな物を運び出そうとして
いる。それが毛布に包んだ姉の、物言えない身体なのだろう。負傷した母親を
その場に残し、白石は姉を抱え、逃げ帰って来たのだ。兄ともう一人の果樹園
の天使の、その魂が待つあの家に。夜目、遠目にその様子を窺いながら瞬一は
我知らず、背筋を固くする。放っておけば、病に冒されたまま、死を待つだけ
の身体だ。それをあの家に運び込むのは奇跡的な、大逆転を夢見ているからに
他ならない。目の前に長く待ち侘びた、その上、通常ならあり得ない、奇蹟を
掴むチャンスが回って来たなら。誰とて、そのチャンスに飛び付くに違いない
ブゥーサンノ気持チモ、ワカラナイジャナイ。
ダケド。
それは許される行為なのだろうか? 魔力を持ってして、一人の人間の寿命に
干渉する。それが生きとし生ける、死なねばならないと言う宿命に従う者達の
内の、ある誰かに許される行為なのか、否か。
ソンナコト、オレニハワカラヘンケド。
デモ。
決して、気持ち良く応援してあげられることでもないような気がしてならない
のだ。
___だって。他にも同じような境遇の人、仰山おるのに。
しかし、今は倫理にも、平等かどうか、そんなことにも拘っていられない。
「あの中に、あのお姉さんの身体の中に、お兄ちゃんは、、、」
「その腹積もりのようだな」
「そんなことをして。それであの人は救われるん? 死なずに済むん?」
「そういうこと、なんだろうな」
冷淡にも聞こえるコウの静かな声音に、瞬一は僅かに違和感を覚える。先刻、
会った時には西ッ側の天使が張った結界からの悪影響を受け、随分、混乱して
いたようだが、それでも自分の責務を果たしたいと望む、強い意気込みは感じ
られていた。しかし、今の彼はまるで傍観者のようだ。瞬一の肩越しに白石が
姉の身体を運び込む様子を眺めるばかりなのだから。
「止めんで、ええの?」
「無理だ。佐原君が浄化されて、“振り出し”に戻ってしまった以上、オレや
レンにあれを止める技量はないよ。おまえには見えないんだろうけど、西ッ側
の連中が勢揃いしているんだぜ? 何人、来ているんだよって話だよ。オレに
は到底、阻めない。西ッ側の連中が邪魔させじと集まっているわけだからな。
もし、奴らとやり合うようなそんな事態に陥ったら、オレにはレンや佐原君は
もちろん、自分の身すら、守れないだろう。土台、戦闘能力が違い過ぎるから
な。奴らと対峙しては、オレごときに勝ち目はない。万分の一すらもな」
ぐっと唇を噛み締め、コウは何かを必死に耐えているようだ。
「オレ達、何、やって来たんだろうな、今まで」
「コウ君?」
「あんなかわいそうな人、地上には幾らでもいる。オレ達は今日まで、何人と
なく、あんな人達を看取って来た。自分の運命に諦めを付けて、ただ心穏やか
に死と言うものを受け入れられるように手助けして来たんだ。それがオレ達の
仕事だと信じてな。だけど。本当はずっと違うんじゃないかって、心のどこか
で疑ってもいた。他に何か、この人のためにしてあげられることがあるんじゃ
ないか、本当は何か、もっと有効な何かをしてあげられるんじゃないか、って
思いながら、でも、何もしてあげられなかった」
「コウ君?」
「オレはね、大昔。そうだ。前に確か、おまえにも教えたよな。オレ達天使は
半人前の頃、一度は人間として、人間界で過してみる。そんな最終的な研修が
あるって」
「レン君の体験談なら」
 それは気の重くなる、暗い、哀しい体験だった。金時計一つと両親の愛情を
胸に救命ボートに乗せられ、小島に辿り着きながらも、その時のレンは愛する
家族の元へ戻ることが出来なかった。人は自分の命のためになら、誰の命でも
貪り食うのだ。
___レン君は子供やったのに。
浅ましい蛮行だと軽蔑しながら、しかし、もしも、自分がそんな状態に陥った
時、絶対にそんな真似はしないと誓うことの出来ない自分がいることも事実で
あり、それが一層、瞬一の気持ちを辛く、苦しめる。
ダッテ。
生キテ、家族ノ元ヘ帰リタイテ、誰デモ望ムコトヤカラ。
「それ、当然、オレもやったんだ。世話になった仮の家族の一人に、ようやく
一人前になって、意気揚々と人間界へ降りて来たその時に出遇ったんだよ」
コウは小ぶりな拳に力を込めた。
「オレは嘗て、自分の妹だったことがある子に、天使として、出会ったんだ。
ケガをして、未来のなくなってしまった妹に、南ッ側の天使としてな」
コウは声を詰まらせる。もしかしたら。ずっと南ッ側の次期親玉候補として、
精一杯、張って来た虚勢にも似たプライドが揺らいでしまったのではないか?
ふと、そんなことを思い付く。天界の将来を担うコウには人一倍のプライドと
共に、肩肘を張らなければならない事情もあったはずだ。不意に弱みを見せて
しまったコウの、その向こう側で赤ん坊と化した佐原を抱き、レンはこちらに
片方の肩を向け、話に加わることも、遮ることもためらいつつ、それでも自ら
の片割れを放置することも出来ずにいるらしい。
レン君、根ッコハ優シイヒトヤモンナ。
「オレは天使だ。あの程度の傷、大真面目に、心を込めて、片手をかざして、
持って生まれた力を注いでやりさえすれば、すぐに塞いでやることが出来た。
痛みからも、熱からも救ってやれた。オレなら、あいつを元通りの元気な身体
にしてやれたんだ。明るくて、いたずら好きで、でも、すっげぇ親切で可愛い
いつものあいつに戻して、父さんや母さんが待っている、小さいけど、温かい
幸せな家に帰してやることが出来たはずなんだ。人間じゃない、天使のオレに
なら、それが出来たんだ。今更、それも人間に語ることじゃないけど、オレが
その家族の一員だった頃、住んでいた町は大騒乱に巻き込まれていてな。家族
は必死に逃げまどった。“オレ”と言う息子を失ったものの、でも、父さんと
母さんは頑張って、小さかった妹を連れて、ようやく辿り着いた穏やかな村で
人並みの生活を手に入れた矢先だったんだ。“息子”を失ったこと、悲しいと
思いながらも、でも、二人は必死で堪えて、やっとそこまで辿り着いたんだ。
だから、何が何でも妹だけは、あいつだけは、父さんと母さんの希望だけは、
手元に帰してやりたかった。でも、オレにはそんなことをする権限はなくて。
人間の寿命を左右するようなことは絶対にしてはならない、そんな天界の規則
を破ることは出来なかった。ただ」
コウは目を伏せる。
「あいつが穏やかな気持ちで目を閉じることが出来るように、ただ、傍にいた
だけだった。それが天使として、正しいことと信じて」
「コウ君」
「オレはたった一人の人間さえ、救えなかった」
「でも。でも。命は救えなかったかも知れへんけど、でも、気持ちは」
「そんなこと、言われなくたって、わかっている。オレだって、ずっとそんな
おためごかしで自分を騙して、南ッ側の天使という仕事を勤めて来たんだから
な」
「コウ君」
「たった一人を、あいつだけは救ってやりたかった。『天使様はお兄ちゃんに
似ている。大好き』って言われた時の、あの時のオレの気持ちがわかるか? 
あんなに身を切られるような、切ない思いをして、それでも、オレは一天使と
して、あいつを、妹を見送るしかなかった」
「コウ」
ようやくレンが口を開く。
「コウは間違ったことをしていないよ。オレ達、天使なんだもん。天界の定め
には従わなくちゃならない。人間とは違う、特別な力を持つからこそ、いつも
厳しく自分を律して行かなきゃならないんだよ。時々、変だなって思うことが
あっても、与えられた定めに従って、日々、懸命に勤めるしかないんだよ」
「そうなんだろうな。オレだって、わかっている。わかっているけど、でも、
オレは佐原君みたいに誰か、たった一人の人間のために全てを投げ出す方が、
よっぽど真っ当なことのような、そんな気がして来たんだ」
「コウ。そんなこと、口にしちゃいけないよ」
「いいや。オレはずっと、自分の務めを果たすためになら、魂の片割れ、レン
だって斬り捨てられるって、でかいことを言って来たけど、あれは崇高な使命
に燃えてとか、そんな恰好の良いものじゃなかったんだ。単にオレには天界に
刃向かう覚悟がなかったからだよ。翼を失うことがずっと、何よりも怖かった
んだ。そんなことになるくらいなら、いっそ、レンを斬った方がよっぽど気が
楽だ。使命のためにやったと言えば、天界ではまかり通る。いいや。むしろ、
オレの評価はうなぎ上りで、暮らし易くなるくらいだ」
 自嘲するように笑うコウを見、レンは眉根を寄せた。コウの独白を痛々しい
ものと感じているのだろう。
「北ッ側のあいつも、西ッ側の奴らも、庶務の連中も、たった一人を救うため
にだけ、掟まで破ろうとしているんだよな」
「コウ。まさか、加担する気なの?」
「いや。そんなつもりはない。だって、もし、オレ達がいなくなったら、佐原
君が困るだろ? 何とかして、天界に戻してやらなきゃならないんだからな」
「そうだけど」
「本当、天界って、嫌な世界だよな。もっと早く、あんな辛い思いをする前に
回収さえしてくれていたら、こんな事態にはならなかったのに」
「うううん。違うよ。人間がもう少しだけ、あのヒトに優しくしてくれていた
って、こんなことにはならなかった。果樹園の天使を足蹴にするだなんて」
レンの押さえた声に滲む怒りに瞬一は項垂れるしかなかった。
「結局、どっちもろくな世界じゃないんだよな。だとしたら」
自分に向けられた声だと気付き、顔を上げる。
「だとしたら?」
「タカシはどっちの世界に置くべきだと思う?」
「えっ?」
思い掛けないコウの質問に一瞬、瞬一は凍り付いたように静止した。いつも、
いかなる時も、何があっても、少なくとも、コウだけは当然、タカシを天界へ
連れ帰るつもりでいるものだとばかり思っていたからだ。
「どっちって? だって、コウ君は」
「天界に連れ帰っても、タカシは収監されるだけだ。何せ、二度目だからな。
振り出しに戻った佐原君は下積みから始めれば、やがて奇蹟の大出世も有り、
かも知れないが」
「でもさぁ」
殊更、明るくレンが口を挟んで来た。
「御本人的には一番、不本意な形なんだよね。だって、このヒト、下っ端から
再スタートっていうのがどうでも嫌だったんでしょ?」
レンは自分が胸に抱えた赤ん坊の顔を覗き込む。
「お馬鹿タン。とっとと観念して、もっと早く詫びを入れていれば、天界復帰
も可能だったのにごねて、“飛ばされ”続けていたんだもんね。オレ達南ッ側
の天使には元々、下級天使の時代なんか、ないから。今更、エリートの意地も
何もあったもんじゃないのにさ」
「意地っ張りの上に見栄っ張りと来たもんだ」
クスリと笑い、コウは気を取り直したようだ。

 

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