一体、いつから、そこに立っていたのか。それすら瞬一にはわからない。知る
由もない。しかし、現前として、空ろな様子で彼はそこにただ、立っている。
本来なら当然、どこかに一人、置き去りにされることなど決してない、特別な
天使であったにも関わらず。まるで親と離れた迷い子のように所在無く。
デモ。
何デ? 
なぜ、彼は一人、そこに現れたのか? 瞬一にはその行動が不思議に思えた。
てっきり兄に付いて、彼と一緒に、タカシといるものだとばかり思っていた。
___さっき、ブゥーさん、このヒトは天界の花を見ているって、言っていた
よな。だったら、ちょっと離れただけなのかも知れないけど。
デモ。
それでもやはり、瞬一には奇異に映る。コウがルール違反を承知の上でタカシ
のために持ち込んだ花。天界を離れて久しい彼にとってはさぞかし懐かしい、
匂い立つばかりに美しい花だったことだろう。故郷の花を眺め、多少なりとも
満足した上でその場を離れたのだとしても。それならそれで速やかにこの世界
における唯一の知人、兄の元へ戻りそうなものだと思う。悲惨な記憶しかない
人間界に再び、今度は魂だけの存在として降り立った今、彼が心地良く過せる
場所と言えば、兄の近くにしかないのではないか? 
___普通、頼りになる、大人が見える所にいる、よな。迷子なら。
しばし考え直してみる。
___子供じゃない、から平気なのかな、やっぱり。別に迷子の子供じゃない
わけだし。
堕天使、佐原を摩訶不思議な手法で“処理”したあの能力を思えば、何も兄を
頼らなくとも、別に恐れるべき対象など、どこにもないのかも知れない。
___オレとか、ブゥーさんなんか、何とも思っていないってわけだ。そうだ
よな。人間相手だ、手加減してやらなきゃって思っていなきゃ、どうってこと
ない話なんだよな。やっぱり。
 しかし、能力の違いを差し引いてみても、まだ解せない。彼はなぜ、今更、
きっと一さじ分の好意も持てないだろう人間二人、いや、三人だけがいる部屋
にわざわざ、やって来たのか? 
『新たな入れ物、他の何かに入れ直してやらなければならない』
兄がそんなことを言っていたからには決して、安定した、確実な存在でもない
はずだ。
___裸の、魂なんだもんな。
むき出しのままでは長く存在出来ないと言う魂。その脆弱さを考えると、そう
長く兄から離れて過すとも思えない。
___やっぱり、安全な所にいたいはず、だから。
しかし、たたずむ彼には一向に戻って行く気配がなかった。
何トナク、ダケド。
彼にとっては最大の障害となり得た佐原を排除し、どこか安堵しているのか、
敵意だとか、憤りだとか、そんな負の感情すら見せなくなった顔は白いばかり
で、仮面のようなのだ。
 そんな天使を相手に何を話せばよいものか、瞬一がためらう間にあっさりと
白石は口を開いた。
「まだ大丈夫なんだよ。せっかく外に出られたんだもの。ゆっくりしていれば
いい。そんなに気を遣わなくていいんだからね。誰も慌てちゃいないんだし。
ねっ?」
ゆっくりと立ち上がり、白石は殊更、笑みを強めて、割合にせっかちで早足な
平素には似合わない足取りでそっと、もう一人の果樹園の天使の、姿を持った
魂へと歩み寄る。
「飲んだり、食べたりは出来ない、んだよね? それじゃ、何をして過すのが
いいんだろう? とりあえず、こっち、もっと中においでよ。そんな部屋の端
っこは暖かくないでしょう? 何せ、この家、古いからね。建て直そうかって
話が出るくらいだもん。どこからともなく冷たい風が入って来るんだよねぇ。
知っていた? ここはまー君のお母さんが二十歳になった時、御両親が贈った
プレゼントなんだって。おばちゃまってこーゆー、ちっちゃい、可愛いお家に
憧れていたらしいんだけど。別に小さな家じゃないよね、ここ。一体、どんな
お屋敷に生まれ育ったんだか。そうだ。天使のお家はどんなくらい? この家
より、大きい? 小さい? 一緒くらい?」
 無言のまま、ややぼんやりと、自分に問い掛けながら歩み寄って来る白石を
見つめる彼は確かにタカシに似ている。顔の形そのものは寸分の違いもない。
そう言えば。もう随分、昔のこととなってしまったが、コウが言っていたはず
だ。人間が見る天使の姿はその人間の望む理想の姿なのだと。死に逝く人間を
癒す、唯一の気の利いたサービスなのだとレンは笑ったが、今、考えてみると
あれは結局、他には何もしてやれないと自責する南ッ側の天使が負うジレンマ
が言わせた自嘲の言葉だったのかも知れない。
___それでも、十分なサービスだって、人間のオレは思うよ、レン君。
いつか再会出来たなら、そう教えてやりたい。そんなことを思い、視線をまた
二人へと戻す。コウの言う通りだとすれば、瞬一が今、遠目に眺めている彼と
白石が間近に見ている彼とは同じ姿ではないはずだ。
デモ。
白石が彼を見る目はとてつもなく優しい。そんな気がした。
___ブゥーさんはタカシにも親切にしてくれていたけど。
それでもやはり、違うとわかる。
デモ。
何デ? 
彼によって、死に瀕した姉の身体に新たな生命を貰うから、だろうか? 
「あんな石の中じゃ、寂しかったよね。ようやく出られたんだ。遠慮しなくて
もいいんだよ。姉さんはあんな状況だけど、でも、一日や二日、先に延ばした
って大丈夫だって、まー君も言ってくれたし。頑張って、誰にも邪魔させない
から。だから、安心して、束の間かも知れないけど、のんびり過して欲しいん
だ。だって、せっかく遠い所から来てくれたんだもの。精一杯の歓迎をしたい
よ。ねっ」
白石は兄からある程度の説明を受けているようだが、彼が話せないこと自体を
知らないのだろうか。何一つ、反応すら見せず、白石を見上げるばかりの天使
を相手に一人、話し掛け続ける。
「家の中はもう、見てしまったの? まあ、まー君の荷物は新居だし、瞬一達
家族の部屋には入れないから、ここくらいしか見る所、ないよね。久しぶりの
外の世界なのに、テレビを見て過すのも難だし。良かったら、外に出てみる?
 とは言え、やっぱり、人込みはイヤ、だよね。それじゃ、山の方にドライブ
しない? オレのとっておきのコースに案内してあげる。何度も行ったけど、
未だ、ただの一度も対向車すら、出くわしたことがない秘密のコースがあるん
だよ。まー君にも教えていないの。それって、すんごい秘密でしょ? わりと
近くでね、なのにすっごく夜景が綺麗で、それで帰りには」
白石はふと口を噤み、黙ったままの天使を見据えた。
「寒いの?」
 唐突と思える質問に、僅かに天使は目を丸くしたようだ。だが、一体、何を
根拠に白石がそんなことを思い付いたのか、瞬一が戸惑う間に白石は思いがけ
ない行動に出た。無口な天使に向けて、自分の両手を差し伸ばしたのだ。
「耳、赤紫色になっている」
耳の外郭に両親指を掛け、白石は頭ごと、天使の白い顔を両手で包み込んだ。
「暖かいとか、冷たいとか、そーゆーのはわかるんだよね? さっき、洗面所
でタオルウォーマー、面白がっていたんだもんね。きっと」
キット? 
「あんな石の中じゃ、すっごく冷たくて、寂しかったよね。オレ達ね、無力な
人間だけど、でも、姉さんごと、あなたのことを大事にする。絶対に寂しいと
か、心細いとか、二度と思わないで済むように頑張るよ。だから、安心して。
それにね。姉さん、今はあんなだけど、子供の頃は可愛かったんだよ。買い物
とか出掛けるとね、テレビに出ませんかって、しょっちゅう、声を掛けられて
ね、父さんも母さんも鼻高々だったんだ。こんな話、意味がわからないかな。
テレビ、ピンと来ないよね。見たことがないんだもんね。あ、そうだ。まー君
のお母さんにもね、将来、柾明のお嫁さんになってねって、言われるくらい、
可愛かったんだよ。だから、きっと皆で頑張ってリハビリすれば。元通りの、
本来の姿になれると思うんだ。だから、あんな身体じゃ、イヤだって思わない
であげてね。姉さんも頑張りやさんだったから。だから、きっと」
 声を詰まらせる白石を見上げ、じっとしていた天使がゆっくりと自分の腕を
持ち上げる。そっと、白石の身体に両手を回し、慰めるように、力付けるよう
に抱き締めてやる様子を眺めながら、瞬一は自分が泣いていることにようやく
気付いた。

 

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