「どちらでも、って。それって、まさか?」
不穏な予感に瞬一は眉根を寄せ、背筋を凍らせる。だが、兄本人にはさしたる
変化は現れなかった。きっと昔、この家を離れた後、こうして夜を過して来た
のだろう、そう思わせる慣れた様子でグラスを傾け、平素と変わらないような
たたずまいを見せている。彼は平静だ。まるで自らの発言など、大したことで
はないとでも思っているかのような。
「複雑に考えることはない。額面通りに受け取れば、それでいいじゃないか」
「額面通り、って。それじゃ、お兄ちゃんと、お兄ちゃんのお兄さんは。えっ
と。魔界と、人間界と両方を手に入れるつもり、ってことなん?」
「簡単に言えばね」
「簡単にって、そんな」
___簡単って、そんなわけないやろ? 魔物に、それも魔界の王様にやって
来られたら、人類存亡の危機やん? B級ハリウッド映画とちゃうんやで?
どこに通報せぇ、言うねん? そんなんと戦えるヒーローなんか、おるわけが
ない。どこにもおらへんわ。
絶句する瞬一の頭の中に浮かんだ想像図を兄は見透かしたように小さく笑う。
「オレはおまえが思うような、そんな陳腐な世界征服の図!には憧れていない
から。だったら、別に構わないんじゃないのか?」
「どういう意味なん?」
「ブゥーや子供が喜んで見るお子様向け特撮番組のコンセプトとは合致しない
タイプだもん、オレ。ダムに毒まいたり、遊園地を襲ったりなんて、暇なこと
するはずもないだろうが。馬鹿馬鹿しい。オレは面倒は嫌いだ。そうだな。誰
にも束縛されず、ある程度、好きにやれれば、それでいい。今まで通り、絵を
描いて稼いで、税金も納めて、パーティーじゃ、多少、愛想もふる。メリット
があるからな。そこそこ稼いで、タカシには安気な暮らしをさせてやるから、
おまえはおまえで自分の学業に専念すればいいじゃないか。獣医学部は甘くは
ないからな、せいぜい頑張りなよ」
「それって、タカシがここに、人間界に残るって意味?」
「当たり前だろう? オレに手放す気がないのに、何で帰るんだよ? 第一、
あいつ、一人じゃ帰還出来ないじゃないか?」
「でも。そんなこと、天界が許さへんやろ? 果樹園の天使がお兄ちゃんと、
元魔物で、魔力も取り戻したヒトと一緒に暮らしていいはず、ないやん」
「まだ言っているのか。さっきも言っただろう? 天界はオレには関わりたく
ない。ましてや、兄になんか、絶対に関わりたくはないんだ。当然だろう? 
相手は魔界の王だ。それともめると言うことはどうしたって、全面戦争をやる
ってことになるんだからな。魔界とやり合うとなったら、当然、天界も全力を
出さざるを得ない。必然的に冥界側が手薄になって、そこから冥界の有象無象
共が這い上がって来るって、寸法だからな。人間界的にもその方がよほど厄介
だろうが。奴らにとってはこっちの方が来易いんだし」
「冥界、、、」
冥界の蓋。昔、この兄とタカシが密かに会っていた白泥の沼、その下にあると
言う、死者達の魂の世界。
___タカシが引きずり込まれそうになった、暗い世界、や。
そのずっと、ずっと奥深いところ、“蓋”からは最も遠い何処かに隆や祖母の
魂がいるのかも知れない。
___人間界と冥界とは、砂時計みたいな形で、対になっとるらしいからな。
その境、冥界の蓋に今も赤い魚と小舟は棲んでいるはずだ。自分達の主と彼の
恋人、可愛らしい天使との再会を待ちわびながら。二人はタカシとの再会の時
を心待ちにして生きている。
___暗くて、湿気って、陰気な沼でじぃっと。そやけど。肝腎のお兄ちゃん
はここで、人間界で甦ってしもうとるからな。ちょっとやそっとのことじゃ、
会いには行けへんよな。さすがにな。あっ。北ッ側の親玉さんがぶっ飛ばして
くれたら行けるんか。でも、そんなこと、してくれへんよな。親玉さん的には
あの、果樹園の天使さんの魂さえ、救えればもう、お兄ちゃんに用はない、よ
な。そやったら、見込みなしやん?
「そうでもないぜ」
「えっ」
 ギョッとして、顔を上げる。その兄は飲み干したグラスをテーブルに置き、
ゆるりと立ち上がるところだった。
「さて。そろそろ支度でもするかな。もう帰って来る頃だろう」
「帰るって、ああ、レオ君のこと? そう言えば、お使いって、何、頼んだん
?」
「帰り道に猫の死骸が落ちていたんで、それを拾って来るように頼んだんだ。
おまえじゃ、頼まれたって、触れないんだろう?」
兄は鼻先で小さく笑ったようだ。
小馬鹿ニシトル。
不愉快だとは思うものの、言い返せない事情もある。確かに自分は猫の死体に
など、触れられない。その上、もう一つ、笑われる心当たりがあった。
「これから獣医をめざそうかっていうのに、大丈夫なのかよ」
ヤッパリ。
「そんなん、その内、慣れるし。大体、何で、猫の死体なんか、拾うて来な、
あかんの? あ、お墓作ったるとか」
「そんなの、思いも付かなかったよ」
「それじゃ、何で?」
「入れ物が必要じゃないか?」
「入れ物?」
スタスタと歩き去る兄の後を追う。相変わらず、すらりと長身の兄に追い付く
にはせかせかと無理に足を進める必要があった。そして、それが余計に苛立つ
理由となっているようだった。
___わかっとるだけにムカツクわ。ちょっと、いや、だいぶ、背が高いかと
思って。てゆーか、脚長過ぎやで、このヒトは。
「お兄ちゃん」
 兄が足を止めた先。それは野菜や保存食をストックしておく食料庫の前だ。
「何か作るん? もう遅い時間やけど」
「何で午前三時に飯、作らなきゃならないんだよ」
もっともだ。
「でも、お兄ちゃんがジャガイモ、出そうとしとるから」
「オレが出そうとしているのはジャガイモじゃないよ」
兄は引きずるようにして取り出した大きな鉢から中身、ジャガイモとタマネギ
を取り出し、それを食料庫の中へ戻そうとしている。つまり。
「何? その大きな植木鉢みたいなんに用があったん?」
「母子して、見る目がないな。祖母さんにもなかったんだろうけど」
確かにその陶器の鉢をジャガイモ入れにした張本人は祖母だ。母親はオムレツ
しか作れないのだから、貯蔵品の管理などするはずもない。
「おまえ、将来、小遣いに困ったら、これを抱えて、骨董屋に行きな」
「じゃ、それ、高いんや」
「ああ。高過ぎて、十中八九、通報されるね」
「ええっ。そんなん、困る。オレ、捕まるやん」
「捕まりゃしないだろう。自宅から持ち出してんだから」
「あ、そうか。えっ、でも、やっぱり、大騒ぎになるやん?」
「そーかもな」
シンクで鉢の泥をすすぐ様子を窺っていると、兄の声が飛んで来た。
「水、持って来てくれ」
「水?」
「これがいっぱいになるくらい、二本もあればいいよ」
蛇口の前でそう言っているのだ。当然、ボトルに入った、ミネラルウォーター
を指しているのだろう。そう気付き、言われるまま、ペットボトル類を蓄えた
棚を開ける。
「何するん?」
「呼んでやるんだよ」
「呼ぶ?」
そう。小さく頷き、兄はダイニングテーブルの上に置いた鉢に、瞬一から受け
取ったペットボトルの水を注ぎ入れる。
「何を呼ぶ気なん? 大体、呼ぶって、どういう意味? 何のことやねん?」
「すぐにわかるさ」
たぷたぷと小さく揺れる水にリビングの落とした照明が映り込み、少しばかり
それらしく、禍々しく揺れている。
「大魔術でもするみたいやね」
「そんな御大層なもんじゃないがな」
瞬一の顔を見ることもなく、水面を眺めながら兄が言った。その右手を水面に
かざしながら。だが。彼の右手は厄介な、扉でもあるはずだ。
モシカシテ。
自分は傍観せずに、その行動を止めた方が良いのではないか? ふと、そんな
ことを思った時だった。
「あっ」
 キラリ、と水中で何かが光った。もう一つ。気付いた時には水中に赤い光が
一つ、黄色い光が一つ、まるで金魚のように泳いでいた。先を争うように、時
には互いを出し抜くようにスピードを緩めて。犬猫の子供がじゃれる様に似て
見えなくもない。
「何、これ? 何なん?」
配線も、何もない以上、仕掛けはないと見るべきなのだろう。つまり、二つの
小さな光の玉は好き勝手、自らの意思でじゃれ合いながら泳いでいるのだ。
「本当、何なん、これ?」
「おまえの顔見知り」
「顔見知り?」
「冥界の蓋で会ったんだろう?」
冥界の蓋。そこでタカシ以外に、自分が遭遇した者は稀だった。
「さ、魚さん? と、小舟さん、なん?」
「そう」
頷き、兄は顔をしかめたようだ。
「魚が一匹きりになるとはな。もう少し、気を配っておいてやれば良かった。
まぁ、その内、“増える”か」
聞き捨てならない言葉だ。しかし、それに瞬一が反応するより早く、兄は踵を
返した。
「お兄ちゃん! どこ、行くねん?」
「おまえが安心出来るように、念を入れておこうと思ってな」
何のことだか、さっぱりわからない。だが、兄の方は涼しい顔だ。
「言われてみれば、その通りだよな。オレだって四六時中、番をしているわけ
にはいかないし、な。万全を期しておいた方がいいだろう」
兄はダイニングを出て行く気のようだ。
「ちょ、ちょっと待って。こ、これは? この魚さんと小舟さんの魂? これ
って、ここに置きっ放しでええの?」
「ああ。構わんよ。ここまで来てしまえば、あとは自分達でやるだろう。入れ
物自体、そこまで来ているんだから。あんな沼で生きているとな、巡って来た
チャンスは絶対に逃さないもんだよ。次はないかも知れないからな。ちょうど
二つ、用意出来て、良かったよ」
___ちょうど二つ? 
兄はあの果樹園の天使の魂を、白石の姉の身体に入れるつもりでいる。彼女の
弱った身体を入れ物と認識する感覚で言っているのだとしたら。
___そこまで来ている、二つの入れ物って。
マサカ。
「レオ君と猫の死体のこと、なん?」
思わず兄の腕を掴んでいた。
「だって。猫はともかく、レオ君は生きとるんやで?」

 

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