これまで一度たりとも見せたことのない難い表情を浮かべ、タカシはただ、
一点、兄の顔ばかりを凝視している。いや、違う。目を逸らせずにいるのだ。
___外せへんのや。怖くて。
瞬一がそう気付いた時、兄が一歩を踏み出し、それに合わせるようにタカシは
一歩、後ずさる。二歩目も全く同じように。ダンスのような動きが面白かった
のか、兄は小さく笑った。
「手間を取らせるなよ。すぐに終わるから。ほら、おいで、タカシ。心配する
ほどの、大したことじゃないさ」
兄が差し出した手を拒むようにタカシはもう一歩、後ずさる。
「タカシ?」
どう見てもタカシは恐れ、怯えている。しかし、一体、何を恐れ、怯えている
のだろう? 曲がりなりにも兄は元々、タカシの恋人だったのではないか? 
それに兄の物腰は柔らかく、さも優しげにタカシを呼んでいるのだ。
___甘いゆーやつ? これで喜ばへん、女性はおらへんやろ、って感じの。
そんな兄を恐れ、タカシが後ずさる理由がわからず、瞬一は兄の背中へと視線
を転じた。確かに兄は何かを企んでいて、瞬一より長く生きていて、賢い分、
察しも良いタカシがその企みを恐れているのは間違いない。
___オレかて、悪い予感だけはビシビシすんねんから。
賢いタカシが何かを気取り、緊張しているのは当然のことなのだろう。
___オレがわかってへんだけや。
「お兄ちゃん? お兄ちゃん、一体、何をするつもりなん?」
「簡単なこと。天界から絶対にお迎えが来ないようにする。結果的にこいつも
あんな所になぞ、帰る気がしなくなるように、おまじないを掛けておくんだ。
おい。ついさっき、そう言ったばかりだろう?」
「そうやけど。でも、それって、どういう意味なん?」
考える。そんな瞬一にとっても都合の良い、有効策があるだろうか? 天界が
好き好んで元魔物に、兄に果樹園の天使を渡すはずはない。それに自分の力を
悪用されたら、と恐れるタカシがこの家に、人間界に留まる決意をするはずも
なかった。
___いくらお兄ちゃんのことが好きでも。それでも、タカシは帰ると思う。
自分に厳しいヒトやもん。きっちりけじめ、付けようって考えるはずや。
ましてや。あの果樹園の天使を救うためにだけ、自分は利用されたのではない
か、そんな疑念を抱いたままの現状では。
ダッタラ。
瞬一に思い付く、天界から迎えも来なければ、そこへ帰ろうとする意欲もなく
なるような状態とは一つきり、だ。前例はある。
イヤ。
___不可抗力でそーなったから、あのヒトは帰られんかった、ってだけで、
それ以外の何物でもないはずや。
決して、わざわざ、その状態にすることではないし、そんなことが出来るはず
もない。
___故意に出来ることやあらへんよな。そんなこと、出来ひん。そんな酷い
こと、誰にも出来ひん。だから。
 瞬一がそう自分に言い聞かせている間にいよいよ、タカシには逃げ場がなく
なっていたようだ。
「瞬一」
掠れるような声だ。それでも、タカシはようやくそれだけ、絞り出したのかも
知れない。助けて。辛うじて、聞き取ることが出来た一言に面喰らい、瞬一は
尚、この事態に戸惑う。兄は一体、何をしようとしているのか? ゆっくりと
しかし、確実に歩み寄る兄に追い詰められ、壁際に立ったタカシはこわばった
顔を歪め、それでも未だ、何とかして逃れようと努めている。
「瞬一」
あまりにも切ない声に我に返る。考え事に耽っている間など、なかった。兄に
左手首を掴まれて、どうにかして、その手から逃れようと必死にもがいている
タカシの元へ駆け出す。
 何とかしなければならない。どんなに兄の方が強そうでも、ケンカ慣れして
いるように見えても、おっかなくても。タカシが今、頼りにしているのはこの
自分だ。怯んで傍観するわけにはいかない。コウやレン、佐原の分も、タカシ
を敬愛する西ッ側の天使の分も、庶務の皆の分も、踏ん張らなければならない
のだ。そう己を鼓舞し、兄の背中に取り縋る。
「お兄ちゃん! 何すんねん? 放したり。タカシ、嫌がっとるやん? 放し
や。放せ! 放せ言うとんねん」
タカシの手首を掴んだ兄の手を払おうと、懸命に力を振り絞る。だが、兄の手
は微動だにしない。引き剥がそうと力を込めるあまり、兄の手に思い切り爪を
立てているにも関わらず、表情すら変わらない。
痛イハズヤノニ。
何デヤ? 
やはり、魔物だから、なのだろうか? 
フン。
面倒臭い奴。
 そんな言葉が聞こえたような気がする。そう思った途端、有り得ないような
力ではじき飛ばされていた。一瞬にして、瞬一の身体は宙を飛び、部屋の中央
に置かれていたイーゼルにぶち当たっていた。
「うわぁ」
自分の悲鳴を聞きながら瞬一はイーゼルごと、床に倒れ込んだ。
「瞬一!」
驚いたタカシが必死に伸ばした右手を見つめ、したたか打ち付けた左肩を擦り
ながら、せめてもの意地と、歯を食いしばる。兄弟とは言え、力の差は歴然と
している。魔力の分を差し引き、普通の人間対人間の争いであったとしても、
到底、太刀打ち出来ない。それほどの体力差があることは否めなかった。
___同じジム通い、言うたかて、オレはスカッシュしに行くだけで、向こう
は本格的な筋トレ派やもん。腕力が違うやろな、そりゃあ、な。
しかし、それでも諦めるには未だ、早過ぎる。
何度デモ、トライアルノミヤ。
 起き上がろうとして、ふと、自分と一緒に床に投げ出された絵に気付いた。
いつもきっちりと絵を覆い隠していた布がずれている。暗い背景に誰か、人の
肩が覗いて見えた。白い服だ。子供心に気になって、しかし、覗き見ることの
出来なかった絵が今、そこに一部だが、見えている。
少シダケ、ナンヤケド。
「そんな物、見たいんなら、見たいだけ見ていいぞ。ガキの頃に描いたんで、
テクニックなしの、稚拙な絵だけどな。母親がいたく気に入って、大絶賛して
くれた絵なんだが、亡骸と一緒に燃やしてやるべきか否か、さんざん迷って、
でも、結局、燃やせなかった代物だよ」
タカシは兄の長い左腕に巻き取られた恰好で、懸命に白い羽根をばたつかせ、
もがいている。
マルデ。
白い糸に絡め取られた蝶のようだ。
___縁起でもないこと、思い浮かべてしもうた。
自戒の念を覚えながら、そろりそろりと歩み寄り、何秒か躊躇して、ようやく
思い切って、厚手の布を剥ぐ。
アア。
この結末は知っていたような気がする。
ズット。
ズット前カラ。
・・・
「オレを恨んでも、憎んでもいい。オレはおまえを放さない。オレが助けた命
なんだから、わがまま言っても構わないだろう、タカシ。一度目はともかく、
二度目はシャレにならなかった。ここのところ」
柾明は自分の首筋を指した。
「思いっきり、串刺しにされた時はさすがに死ぬかと思ったよ。オレはおまえ
を守るために頑張ったんだ。覚えているだろう? だったら、おまえはオレの
頼みを断れないよな。オレが一緒にいてくれって、こんなに頼んでいるんだ。
なぁ、タカシ。オレの願いを叶えてくれるんだろう?」
・・・
 足元で微笑むヒトを知っている。小舟に乗り、こちらを見て、微笑むヒトに
翼はないが、はっきりと同じヒトだとわかる。
___タカシの髪飾り、こんな形で見ることになるとは思わへんかった。
・・・
 耳をつんざくような、鳥のような叫び声が聞こえたと思う。次いで薄明るい
室内にゆっくりと、雪のように舞う白い羽根があった。一枚ずつが僅かに光を
帯び、白いオパールのような淡い光を放ちながら、静かに音もなく沈んで来る
のだ。瞬一の涙で濡れて、良く見えない目の前を通り過ぎ、落ちて行く羽根に
哀しみはないのかも知れない。
「愛しているよ、タカシ。オレ達には時間がある。昔、あの沼で約束した通り
に二人で旅をしよう。地上の全てを見るんだ。おまえのためじゃなきゃ、オレ
だって、冥界の王とやりあったりなんかしなかった。わかるだろう? 誰にも
おまえを盗られたくなかった。だからこそ、おまえを魔界に連れ帰るわけには
いかなかった。魔界自体を捨てて、ここまで来たんだ。おまえはとっくの昔に
オレの覚悟を見て、この結末を知っていたじゃないか?」
 泣きじゃくるタカシを抱き抱え、髪を撫で、なだめる兄の声を背にノロノロ
と鈍く、重い身体を動かして、部屋を出る。いたたまれない胸が痛んで仕方が
なかった。やっとの思いで部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。このまま固く目を
閉じ、じっとしてさえいれば。明日の朝には全てが、兄の望んだ通りに生まれ
変わっているのだろう。魚はレオの身体を借り、小舟は猫の身体を得る。もう
一人の果樹園の天使は白石の姉の中に安息の場を定める。そして翼をもがれた
タカシは迎えを失い、この家に、いや、柾明の傍に留まるしかないのだ。
オレハ無力ヤッテン。

 

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