結局。自分にはタカシを守ることが出来なかった。
イヤ。
守る、守れないの次元ではなく。遅れて現れた本来の恋人に勝負を挑むことも
なく、そのまま、返してしまっただけに等しいのかも知れない。
ダッテ。
胸に言い訳を呟く。
 あの絵に描かれたタカシは瞬一が見ているタカシそのものだった。それぞれ
が己の描く理想と重ね合わせた姿を天使の中に見るのだとしたら。当然、柾明
が見ているタカシと瞬一が見ているタカシとは別のものであるはずだ。それに
も拘らず、柾明が昔、前世の記憶がないまま、描いた人物は瞬一が見るタカシ
そのものだった。その事実を目の当たりにして瞬一は驚愕し、戦意も喪失した
のだ。
トテモ敵ワヘン。
そう直感した自分が間違っていたとも思えない。
___確かに、意気地は足らなかったんだろうけどな。とんだ弱虫だよ、オレ
は。尻尾巻いて、逃げ出しちゃったようなもんなんだから。
「お待たせ」
自分の前に立った男は知っているようで、知らないような人だった。
「何、怪訝そ〜な顔して。あ、コーヒー、下さい」
「ブゥーさんってば、、、。激痩せ?」
久しぶりに見る白石は随分とすっきりとしている。もし、街中で出会ったもの
なら、うっかり素通りしていたのではないか、そう思うほどの変わりようだ。
「そぉ? まぁ、服はあらかた買い換えている最中かも。椿ちゃんのリハビリ
に付き合ったり、今度、家のリフォームするんだけど、あちこち使い勝手って
ゆーか、実状ってヤツを調べて回ったりとかしていて、えらく忙しかったし。
そう言えば、この頃はあんまりいっぱい、食べなくなったような気もするな。
うん。そう言えば、食べていない。関心なくなったぽいかも」
「じゃ、あれ、ストレスに因る過食太りだったんだ」
「ああ。そうかもね。前ほど、甘い物も、油っぽい物も欲しくなくなったもん
ね、そう言えば」
まるで他人事のような言い方だ。何かに夢中になるあまり、本当に自身の変化
には気付いていなかったのかも知れない。
「ふぅーん。ブゥーさんって、本当は色男だったんだね」
「本当はって、失礼だな。太っていたって、オレは明らかに可愛い路線だった
だろ? あっ。瞬一は相変わらず、デコ、出ているよね、ポコンってね」
「うっさい。骨やもん。仕方あらへんやろ? とんかちで叩いたかて、平らに
なんか出来ひんわ、ボケ」
思わず、ムッとした瞬一の様子を見、
「お、地が出て来た。懐かしの大阪弁もどきだ」
とクスクスと笑う彼は幸せそうだ。
「お姉さん、順調なんやね」
「うん。今は車椅子だけど、あの人、土台がすんごい頑張りやさんだからね。
指導の先生達にも、そんなに根を詰めないでって、止められちゃう始末なの。
ファイターだよね。やり過ぎだよ」
「お母さんは元気なん?」
「お母さん? ああ。そりゃあ、もう。両親は苦がなくなって、太って来たか
な、みたいな」
「良かったね」
「うん。サンキュ」
あの朝方。戻って来たもう一人の果樹園の天使は白石と手を繋いでいた。その
爪はタカシよりはやや長いという程度で、決して、悪魔めいた長爪ではなく、
表情も穏やかだったように思う。
キット。
短い時間だったが、白石と過す内、彼の心の傷も癒され、幾分かは救われたの
かも知れない。何が言いたかったのか、わざわざ瞬一のこもる部屋を訪れて、
じっと見据えた。ただそれだけで彼は階下へ降りて行き、どうやったものかは
わからないままだが、予定通り、椿の身体に納まることが出来たのだ。
___心配してくれたのかもな。
「この頃はね、顔も昔の椿ちゃんらしい、普通の顔に戻って来てね。会う人、
会う人、皆が口を揃えて、『椿ちゃんて、本当は美人だったんだね』って驚く
んだよ。ちょっぴり失礼な気もする言いぐさだけど、仕方ないんだよね。寝た
きりの時はどうしたって、顔の筋肉使わないからね。顔はダメになるよね」
「そうやね。でもな、それは正直、予見出来ることやから、別にそうびっくり
せんでもええ話かな、と思うんや」
「何? 他に驚くようなこと、あるの?」
「あるやん。オレ的には何が驚きって、ブゥーさんが楓さんやったことやわ。
こないだハガキ、貰ったやんか? 差出人の名前見ても、しばらくわからへん
かったもん。白石 楓やで? ごっつい美人の名前やんか。とてもブゥーさん
を連想出来ひんやん。あ。もしかして、豚やからブゥーなんやなくて、元々は
楓さんやから、フゥーやったん?」
「そうだよ! つんちゃんはオレのこと、フゥーちゃんって呼んでいたのに、
ふと気付くとまー君がブゥー、ブゥーって。おい!って感じだよ、まったく」
 久しぶりに聞く名前にギクリと、瞬一が密かに両肩を固めるのに気付いたの
か、白石は少しばかり声をひそめた。
「本当に全然、会っていないの?」
頷いた。
「オレも家、出とるし」
「大学の近くに住んでんだって?」
「うん。アパート借りてな」
これも良い転機と割り切ったつもりになって、進学に合わせる形で家を出た。
「分相応な安アパートや。西日は当たらへんけど、階段がカンカンカンって、
すんごい足音がする、昔のドラマみたいなヤツ。そやけどな、大家さんがええ
人やねん。学校の先輩も何人か、住んどってな、賑やかやし。毎日、文化祭の
準備しとるみたいなんやで」
「へえー。予想外の展開。てっきり瞬一はそーゆーの、苦手かと思っていた」
「うん。オレも」
素直に頷く。自分はずっと慣れ親しんだ家にいるものだと思っていた。だが、
タカシのいない、彼の思い出ばかりがそこかしこに溢れた家に、帰国した両親
と一緒に暮らすのは気が進まなかった。
___タカシとの思い出は大切にしたいもんな。あの二人はノーテンキやし、
いささか神経が死んどる所があるもん。一緒におったら、オレ、消耗してまう
わ。
二人に悪気は無くとも、大切な思い出がかき回され、台無しにされる可能性は
否めなかった。
「獣医学部って、忙しい?」
「そやな。結構って言うか、マジで忙しい。自宅通学にせんで良かったって、
感じ。バイトもしとるんやで。掛け持ちで。それでこないだ、ちっちゃい中古
の車、買うたんや」
「へぇー。めっきり逞しくなってんだ。そうだよねぇ。一人暮らしの大学生だ
もんね。さすがに八ヶ月、親元を離れたら変わるよねぇ。まぁ、元々、瞬一は
一人暮らしみたいなものだったわけだけど」
「まぁね。ブゥーさんの方は幸せいっぱい、ハッピーなんやね」
「うん。通りすがり、三軒隣りのお家が更地で、ちょっぴり寂しいんだけどね
ぇ」
「ああ。その内、工事が始まったら、賑やかになるんやない? 騒々しい言う
んか、そーゆーのんは」
「うん。騒々しい、だね。新居が出来ても、瞬一は戻らないつもりなんだ?」
「そう、やな。今度、建つ家は父さんと母さんと、弟の家やからね」
「まー君が戻らないからって、遠慮すること、ないと思うよ。だって、瞬一の
両親と弟と一緒に住めば、それで結構な話なんだから」
「うん。ありがとう。でもな。今更、弟が出来るとは思わへんかったわ」
「あー。いわゆる恥かきっ子だよねぇ」
さすがに白石は容赦がない。
「よく今更、作る気になったってゆーか、出来ちゃったから仕方ないんだろう
けど、面倒じゃないのかなぁ。あの歳で授乳なんてしたら、いきなりババ体形
に変わるんじゃないの? 先入観なわけだけど」
「本当に、ばっさり斬り捨て御免やな、あんた」
「だって、そーゆーイメージじゃん? もう四十でしょ? 越えてんじゃない
の?」
「越えてる、けど」
「やっぱり。若作ってんだ、あの人」
悪びれた様子もなく、それでも白石は少しばかり、考え直したようだ。
「でも、恥かきっ子ってさ、兄姉が一番、恥ずかしいって、そーゆー意味だよ
ね。オレは経験ないけど。やっぱり、まー君も恥ずかしかったのかな」
「そうやろうな。思春期は辛いなぁ、やっぱり。オレ、十八でも、えええっ?
って感じやったもん。大体、サプライズって、隠し通すようなことか? オレ
の合格祝いの席で大発表するんやって、わざわざ帰って来て、何を言い出すん
かと思うたら。勿体つけて、何事があったんや、思うやん? それをヘレヘレ
デレデレ、オメデタや言うから。オレ、レストランで硬直したもん、ほんま。
しばらく開いた口が塞がらへんかったわ」
「おっ、未だかなり、御立腹の様子だね、瞬一君」
「だって、そうやろ? お兄ちゃんに悪いやん。もうちっと気ィ遣えゆー感じ
やん? 何で今更、増やすねん? あの二人、本当に頭おかしいんとちゃうん
かな?」
「お若いのに、瞬タンは気ィ遣いしぃなんだ。親に似ず」
「茶化さんといてや」
「だけど、まー君、弟が一人から二人になったって、別に気にしやしないよ。
おばちゃまの望みは瞬一のお父さんの幸せだったそうだから。彼が幸せなら、
それで良いんじゃないの? おばちゃまの一人息子的に、さ」
「お兄ちゃんのお母さんって」
「ん?」
「仏様みたいな人やったんやね。オレやったら、そんなこと、とても言えへん
よ。怒り狂って大暴れしそうやもん」
「まぁ、普通はそうなのかもね。でも」
「でも?」
「好きになるって、そーゆーことなんじゃないの? あくまでも、想像だけど
さ」
 照れた、気恥ずかしげな笑みを浮かべ、白石は運ばれて来たコーヒーを口へ
運ぶ。冬の人気カフェはなかなか繁盛しているようだ。たまに都心に出て来る
のも悪くない。特にこの季節は。街のイルミネーションはさすがに大学周辺の
それとは違い、洗練されて華やかだ。
___一人で見るのは寂しい、けど。
「さて。そろそろ本題に入るかな」
白石はカップをテーブルに置いて、居ずまいを正す。
「ああ。是非、そうしてや。オレ、ブゥーさんに会いたいゆー、ふざけた紙、
貰って、それでここまで来たわけやけど。そもそも『会いたいv』って、何、
それ? 変な冗談やな。笑うところがわからへん」
「失礼だな。最近、瞬一がだっさいジャージに、ねじり鉢巻姿で藁にまみれて
いるって、良からぬ噂を耳にしてだね、それは若人としてどうかと思うから、
わざわざこーんな、オシャレなカフェに呼び出してあげたんじゃない? 住所
と店名を聞いたら、さすがにおめかしして出て来るだろうと思ってさ」
「はぁ? そんなつまらんことが理由なん? どこから聞いた話か、知らへん
けどな、実習なんやから仕方ないやろ? 相手、牛やもん。めかし甲斐がない
わ、そんなもん」
「そりゃーね。妙齢のメス牛じゃあ、ね。で、早速なんだけど。わざわざ良い
恰好して、出て来たんだからさ。瞬一、今日は寄り道して帰んなよ」
「寄り道?」
白石の意図がわからず、瞬一は眉をひそめた。
「どーゆう意味? オレをここへ呼んだ理由、言ってへんやん?」
「あのね、ここからまー君ちに行けば?って、そう言ってんの」
兄の家。
「これ、住所。どうせ知ってんでしょ?」
白石はメモ書きを差し出した。
「タカシ、元気なん?」
「たぶん、瞬一が最後に見た時よりは、ず〜っとね」
最後。両親が帰国し、家に戻って来る直前。兄は毛布に包んだタカシを抱え、
自分の生まれ育った、母親の家を出て行った。
別ニ。
兄にも、タカシにも拒まれたわけではないのだが、瞬一は二人と顔を合わせ、
見送ることが出来なかった。ひたすら避け続けることでどうにか自分を保ち、
進学に合わせ、家を出て、今日に至っているのだ。
___オレは弱虫やな、ほんまの。
「ブゥーさんは、定期的に会うとるんやね」
「まぁね。椿ちゃんの様子を報告する義務って言うか、義理はあると思うし、
元々、オレ達、幼馴染で疎遠になる理由もないから」
「そうやね」
「会った方がいいよ、瞬一」
「何で?」
「暖かくなったら、まー君、ヨーロッパに戻る計画があるらしいから。それ、
タカシも連れて行くって、そーゆー意味でしょ、やっぱり」
「そう、やね。恋人同士やもんね。もう離れたりはせんやろうね。あの二人、
上手く行っとるみたいやった?」
「上手く行くも何も、あのタラシが丸め込めないはずがないじゃん?」
アア。
ごもっともだ。柾明の手管を持ってすれば、タカシ相手に手を焼くことはない
はずだ。
「ここ、焼き菓子、美味しいよ。手土産にちょうど良いんじゃない? まー君
はいないし、二人分、買って行きなよ、大学生」
 ニコリと笑った白石に背中を押された形で、店を出る。手には籠盛りの焼き
菓子。兄のスケジュールを承知の上で計らってくれたことだとしたら。
___乗らない手はない、よな。せっかくの親切を無駄にしちゃいけないし。

 言いわけしているだけだと思いながら、それでも何度か、同じようなことを
呟きつつ、寒風に立ち向かうようにして足を進める。見上げるばかりのタワー
に灯った家々の明かりが美しい。
___ツリーの中に住んどるようなもんやな。
オフィスを兼ねた自宅だ。ベルを鳴らすと、秘書と思しき女性が現れた。
「伺っておりますわ。さぁ、どうぞ」
にこやかな様子を見ると、瞬一を弟と周知していた節も見える。
「あの」
「今日はアトリエにお泊りですけれど、構いませんよね」
「ええ」
確かに兄は不在だ。
「上に黒木君がいますから、あとは何でも、彼に仰って下さいね。それでは、
失礼致します」
彼女は帰宅時間を迎えていたようだ。彼女が出て行くと同時に、階上にレオの
姿が現れた。
「よっ、人間」
同じ人間に“人間”と呼ばれるはずはない。
「魚、さん?」
「小舟もいるよ」
彼の足元には黒い猫がいた。
「あの」
「心配いらない。一日の内の大半をこのガキに好きに生きさせている。今日は
留守番をするんで、オレが“出て”いるがな。人間にタカシを預けるわけには
いかないだろう?」
「そうやね。あの。タカシ、は?」
「奥にいる。上がって来いよ」
「うん」
 駆け出したいような、逃げ出したいような、不思議な心地に苛まれながら、
魚に勧められるまま、奥へと進む。広いリビングは温室のようで、その一角、
白い大きなソファーにもたれたタカシは眠っている様子だった。暖かな部屋だ
が、それでも用心深く象牙色の毛布を羽織って。
「翼をもがれちまったんで、長いこと、ふせっていたけどな。この頃は随分、
良くなったよ。普通に食事も出来る。相変わらず、睡眠時間は長いけど」
「もう大丈夫、なんやね?」
「心配はいらない。あとは元気になる一方だ」
二人の会話のせいだろうか。タカシの睫毛が僅かに震えたようだ。
「タカシ?」
ゆっくりと見開かれる目から、あのオパール色の光が束の間、僅かに溢れて、
そして、瞳の焦点が合う間にそっと、淡く消えて行く。
「瞬一?」

 

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